安芸の国から

安芸の国に暮らすおじさんのお出かけ記録です

旧帝国海軍:呉の工廠神社周辺

呉の工廠神社・・・ と記しても「ピン」とこないかもしれません。アレイカラスこじまそばにあるセブンイレブン横からアレイカラスこじま駐車場に向かう上り道の途中に工廠神社入口があります。

工廠神社入口

工廠神社

工廠神社入口 産業神社

工廠神社への階段入口です。こちらでは「工廠神社」ではなく「産業神社」と記されています。傾いていますが、水平がとれていないわけではなく、本当に傾いています(汗)。それはさておき、エラく急な階段をのぼっていきます。

工廠神社 通風孔

急な階段をのぼっていくと右手に見つけることができるのがこの通気口らしきもの。このあたりには地下壕(地下工場?)があったということですので、その通気口だと思います。

工廠神社 監視哨
工廠神社 監視哨

さらにのぼっていくと左手に見えるのが監視哨。防空監視哨だったという話もあります。この監視哨の上にはコンクリートの台座らしきものがあり、そこに機銃が据付けられていたようです。

上の画像が監視哨の入口なのですが、コンクリートで完全に塞がれていて入ることができません。見た感じは頑丈そうなので、入ることができるようにして公開すればよいのにと感じるのですが、カンタンにはいかないのでしょう。

工廠神社 神社跡

そして急な階段をのぼり終えて見えるのがこの神社跡。完全に「跡」しかありません。呉空襲時になくなってしまったのか、戦後に取り壊されてしまったのかわかりませんが、ちょっと不思議な感じ。

職工教習所 工員養成所 跡地

工廠神社から道に戻り、さらにアレイカラスこじまの駐車場へのぼっていくと「職工教習所・工員養成所跡地」の 記念碑があります。

職工教習所・工員養成所跡地 記念碑

大正七年(一九一八年)呉海軍工廠は中国、四国地方の小学校高等科二年卒業生より、厳重な試験により、優秀者を採用し、中堅工員養成の目的でこの地に職工教習所(後に工員養成所を開校し、終戦(昭和二十年)までの二十七年間に約二万名の卒業生を送り出した。この生徒は一般には見習工と云われ、羨望の的であった。

三年間の本科選ばれて補修科更に全国の工廠からの技手養成所等への道を設けられ名実共に工廠を担う者となった。

当時の軍隊に入営した者、又一般社会人としても優秀者、指導者として活躍し、広く見習工出身との見習工出身との名声を高めた。

昭和十三年には、海軍工作科予備補習生(一般に工作兵と呼ぶ)制度が設けられ、他への流出を阻止されたこともうなずけるものであった。

学校は小さく期間は短かかったが我々に多く教訓を与えてくれたことに感謝する。

戦後、その精神、知識、技術は各方面に発揮され日本復興と発展に大きく寄与されたことは広く認められた。

しかし、戦争に多くの学友が国難に殉じたことは惜しみても余りあり、決して忘れてはならない。

ここに同窓会より基金を募り、呉市の協力を得て懐しのこの地に思い出と功績を偲び記念にこの碑を建立した。

平成十年五月吉日 同窓会

海軍技手養成所跡地

アレイカラスこじまの駐車場入口を過ぎてすぐ見つけることができるのが「海軍技手養成所跡」の記念碑。現在アレイカラスこじまの駐車場となっているところに、海軍技手養成所がありました。

海軍技手養成所跡 記念碑

海軍技手養成所ハ慶応三年横須賀ニ創立サレタル黌舎ニ始マリ 爾後造船工学校 技手練習所等名称学制ニ変遷ハアリタルモ 何レモ日本海軍揺籃成長期ノ中堅技術者養成ヲ目的トサレ 大正八年三月勅令第三十四号ヲ以テ海軍技手養成所令ガ公布セラレ 校舎ヲ横須賀ニ設ケ 専門学校ニ準ジテ教育サルルコトトナリ造船 造機ノ二科ヲ置キタルガ 昭和三年校舎ヲ呉ニ移シ 海軍造兵職工講習所ヲ合併シテ造兵科(砲熕・水雷・電気・製鋼・航空)トシ 昭和十七年金属材料科 機械工作科ヲ増設 従来ノ海軍技手養成所ヲ第一海軍技手養成所ト改称 航空関係ヲ分立シテ横須賀ニ第二海軍技手養成所ヲ設ケテ機体 発動機 兵器 材料ノ四科ヲ置キ 昭和十八年ニハ燃料関係トシテ大船ニ第三海軍技手養成所ヲ新設セラルルモ 昭和二十年八月終戦ヲ迎ヘ 第一海軍技手養成所ハ第二十四期生第二海軍技手養成所ハ第四期生ノ卒業ト共ニ此等ハ凡テ廃所トナレリ 然リト難モ黌舎以来ノ卒業生一、七八三名 何レモ日本海軍ノ艦船 兵器 航空機ノ造修ニ於ケル中堅指導者トシテ輝カシキ事績ヲ挙ゲ 戦後ハ各界ニ進出シテソノ復興ニ多大ノ貢献ヲ為シタリ戦後五十年ヲ機トシ今茲ニ同窓生有志相計リ校舎跡ヲ望ム此の地ニ本碑ヲ建立 先輩諸兄ノ功績ヲ偲ブト共ニ同窓ノ心ヲ結ブ絆トシテ 後世ニ海軍技手養成所ノ名ヲ刻シ 自ラヲ工士ト称セシ稔持ヲ伝フト言フ

平成八年十一月

海軍技手養成所同窓会

上の職工教習所・工員養成所、この海軍技手養成所にしてもそうですが、現場技術者の育成・確保については考えられていたのですね。誤解を恐れずに言えば、精神論だけで戦っていた感のある帝国陸海軍なのでちょっと意外な感も。もちろんちょっと考えてみれば、零戦の活躍や酸素魚雷など決してそんなことはないのですが。

ただ、太平洋戦争がはじまってからがじり貧。開戦当初の快進撃でおごってしまったのか、そもそも先端技術に必要性を感じなかったのか、必要とは考えていたがそのときには人的にも他の資源もまわらなくなっていたのか・・・

特にレーダーの基本技術は日本の八木博士が開発したもの。この技術を使ってイギリスなどは軍事レーダーを開発しました。このレーダーにより帝国海軍は大変な損害を受けたのは事実。やはり上に書いたことはすべて当たってるのではないかと思います。そして、必要性に気づいたときには、開発しようにも物資が手に入らないようなどうにもならない状態までおちていたんだろうなと。

こちらにも監視哨

アレイカラスこじまの駐車場をさらにのぼっていくと崖の上に監視哨を見つけることができます。

監視哨 遠くから

ちょっと遠く(坂道の途中)から撮ったのがこちら。右上のほうに穴の開いたコンクリートらしき丸っぽい建造物があるのがわかりますか?

監視哨 近くから

そして近くから撮ったのがこちら。工廠神社途中にあった監視哨とは開口部が全然違う形をしています。やはり用途が違うものと思われます。監視哨までのぼってのぼれないことはないと思ったのですが、何かあってはいけないのでやめておきました(汗)。

このように呉には有名ではないかもしれませんが、戦争遺構と呼ぶことができるような建造物が普通にあります。私がみたことがないことはもちろん、存在すら知らない遺構がたくさんあると思います。いろいろな遺構を見て、たくさんのことを考える必要があると感じるのでした。

このページの公開日:2010.07.11

コンテンツメモ

  • 訪問日:2010.07.04
  • 場所:広島県呉市
  • 行程:国道2号 - 国道31号
  • EOS 40D + Tamron SP AF 17-50mm F/2.8 XR DiII VC

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