安芸の国から

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旧帝国海軍:回天特別攻撃隊隊員 和田稔記念碑

8月31日、山口県の上関町白井田に建立された記念碑へ。この記念碑は回天搭乗員として亡くなった和田稔少尉を追悼する記念碑です。8月29日に前日に行なわれた除幕式の中国新聞記事を読み、早速訪れました。

和田稔記念碑と港

2011年8月28日に除幕された記念碑

最初に記したように、この和田稔少尉を追悼する記念碑は8月28日に除幕式が行なわれました。新聞記事によると妹の若菜さんも出席されたようです。

ところで「なぜこの地に記念碑が建立されたか」ですが、それは終戦間際の昭和20年7月に回天訓練中に行方不明となった和田稔少尉が終戦後9月の台風でこの地に回天ごと漂着したから。

和田稔記念碑

記念碑に記されている碑文を記します。

回天特別攻撃隊隊員 和田稔記念碑

記念碑の製作意図

全体の形としては、二人の人物が離別を惜しんで手を取り合う"愛"を表現し、側部には海の表情を取り込み、台座にも波を刻み、上部は想いが空に向かっていく感じにしました。 安らかなる眠りのために丸い出口を作り、そこから周防灘の海が見えるようにしました。

この記念碑で、1945年 この地に流れ着いた回天の搭乗員である和田稔さんの事実と共に戦争の歴史を知らせ、平和な時代が続くことを祈る地にして欲しいと願っています。

2011年8月28日

設置者:原田博之

デザイン:難波章人

石材加工:柏田真一

監修:難波平人

協力:白井田区

碑文に記されているところをピックアップ。

和田稔記念碑 横面

海の表情を取り込んだ側部

和田稔記念碑 台座

波を刻んだ台座

和田稔記念碑 正面の出口から周防灘をみる

想いが空に向かっていくことをあらわす上部と周防灘の海が見える丸い出口

中国新聞以外にもこの記念碑のことを記事にしていました。MSN産経ニュースでは若菜さんの言葉として

式に駆け付けた西原さんは「この碑が、兄だけでなく、全ての戦死者の霊のよりどころになってくれることを願います」と語った。

と。私もそう思います。そしてこの記念碑のことを知った現代の方々が、特攻という理不尽な行為をしなければならなかった時代があったということを知り、特攻した若者たちがどういったことを考えていたのかということを考えるきっかけになればと考えます。

和田稔少尉について

ここで和田稔少尉について。映画にもなった「出口のない海」で和田稔少尉のことを知った方もいらっしゃると思います。最初に和田稔少尉の略年譜を。

1922 (大正11)
1月13日:愛媛県生まれ
1942 (昭和17)
9月:第一高等学校卒業
10月:東京帝国大学法学部入学
1943 (昭和18)
12月:大竹海兵団入団
1944 (昭和19)
1月:武山海兵団へ移動
2月:予備学生に
7月:航海学校入学
10月:川棚魚雷艇訓練所へ
11月:回天特別攻撃隊光基地へ
12月:少尉任官
1945 (昭和20)
5月:轟隊として伊号363潜水艦で出撃
6月:発進の機会を得ず帰投
7月:訓練中に行方不明となり殉職

一高から東京帝国大学というエリートコース。しかし当時の戦況から予備学生、軍人へ。自ら望んで軍人になったわけではなく、自分ではどうすることもできない大きな流れの中で軍人になる・・・

和田稔少尉がずっと記していた日記が「わだつみのこえ 消えることなく」として書籍になっています。読むと当時のいわゆる高等教育を受けていた「自ら考えることを知ってる」者が自分の置かれている環境と折り合いをつけるために考え悩んでいたことを感じざるを得ません。

若菜。私は今、私の青春の真昼前を私の国に捧げる。私の望んだ花は、ついに地上に咲くことがなかった。とはいえ、私は、私の根底からの叫喚によって、きっと一つのより透明な、より美しい大華を、大空に咲きこぼれさすことが出来るだろう。
私の棺の前に唱えられるものは、私の青春の挽歌ではなく、私の青春への頌歌であってほしい。

上の引用は1943(昭和18)年9月23日に法文科系統徴兵猶予停止案が発表された後、9月30日から出征間近の12月6日まで記された「遺留のノート ─弟妹のために─」の中で10月3日付で書かれたのが妹の若菜さんへ向けた言葉。映画「出口のない海」でもこの一節が活かされています。

この「遺留のノート」を読むと、自身が受け入れるしかない死を考え、納得しようとしているのが本当によくわかります。そして12月8日に「遺書」を記します。

航海学校入学後、11月18日にいわゆる特攻兵器の説明があり志願します。しかし選にもれる(19日)のですが、20日朝に二度願い出て遂に許されます。そんな和田稔少尉ですが、航海学校に入学して間もない7月22日に人間魚雷について日記に次のように書いています。

人間魚雷の考え方について
現在ではこのような兵器によるほかに打開の道はありえないのではないか。航空機の消耗率は敵に与える損害に比しあまりにも大であるし、艦船の接敵は敵の電探下ほとんど隠密行動不可能であり、魚雷艇また劣速情弱にすぎるであろう。
私はこうしてもし人間魚雷というものが日本にも現われ、また現に採用されつつあるとすれば、それに搭乗するのは私達をおいて他にはないであろうということを、不思議にてきぱきと、そして落ちつきはらって考えてみるのである。

なぜ軍人となって1年にも満たない学徒兵がこういった考えを持ったのか・・・ これが和田稔少尉の洞察力の深さなのか・・・ 武山海兵団から多くの同じ時間を過ごした学徒兵の武田五郎氏もこの発想がどこから出てきたのだろうと著書「回天特攻学徒兵」で記しています。

こういった考え方を持っていたから一度選にもれても願い出たのでしょうか。与えられた死に関して自分が辿り着いた答えがそうさせたのか・・・ 現代のような混沌とした時代だからこそ、皆が考えることが必要なのではないかと感じます。

おまけ:上関町白井田地区

上関町、中国地方に住んでいる方であれば聞いたことはあるのではないでしょうか。中国電力が原子力発電所建設の候補地としている場所です。私自身は「上関」という地名は知ってましたが、今回の記念碑の記事ではじめて正確な場所を知りました(苦笑)。

上関町白井田地区の港
上関町白井田地区

上が記念碑と港(記念碑は右下のほうにちっちゃく写ってます)、下が白井田地区の街並みと青い海・・・ ホントに青くキレイな海でした。記念碑はいろいろと考えることがありますし、皆が考えないといけないと思いますが、この街並みと青い海は私をとても癒してくれたのでした。

コンテンツメモ

  • 訪問日:2011.08.31
  • 場所:山口県上関町
  • 行程:山陽道 - 県道72号
  • EOS 7D + SIGMA 17-70mm F2.8-4.5 DC MACRO

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