安芸の国から

安芸の国に暮らすおじさんのお出かけ記録です

旧帝国陸軍:いそべの杜

山口県長門市にある「いそべの杜」に出かけました。「いそべの杜」... 知らない人がほとんどだと思います。ここは二・二六事件首魁の一人「磯部浅一」のことを忘れないようにするために鎮魂の碑をつくるとともに整備されました。

いそべの杜 磯部浅一記念館も

二・二六事件と磯部浅一

最初に二・二六事件について少しだけ。二・二六事件は1936(昭和11)年2月26日に隊付の青年将校たちが中心となって起こした武力による(いわゆる)クーデター。青年将校が第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団歩兵第3連隊の兵を率いて蹶起し、(彼らが)国体破壊の元兇と考えた首相を含めた政府要人および軍教育総監を殺害、加えて陸軍省や参謀本部なども襲撃し日本の中枢といえる場所を占拠します。

蹶起した青年将校たちは自分たちの行動を「クーデター」ではなく「維新」といいました。天皇と国民の間にいる悪(元老、重臣、財閥、軍閥)を自分たちが排除することで天皇と国民が直接結びつき、自然と維新は成るという考えです。しかし、自分たちが考えた「悪」を天皇は「悪」と考えていなかった... その時点でこの行動は成功しないことが決まったのでした。

そんな二・二六事件は四日後の29日に鎮圧されました。

いそべの杜 全景

いそべの杜の全景が上の写真。碑を中心に、右に建碑之記、左にこの「いそべの杜」について記されています。

いそべの杜 磯部浅一之碑

磯部浅一は山口県大津郡菱海村の貧しい農家に生まれました。そういった境遇だったからこそ、より兵とその家族の苦しみを理解し、決起に走らせることになったのでしょう。建碑之記を記します。

いそべの杜 磯部浅一之碑 碑文

建碑之記

昭和天皇の世紀 十一年二月 陸軍の若手将校の一部が昭和維新を標榜して武装決起した。史書に残る「二・二六事件」である。この事件の首魁のひとり磯部浅一は明治三十八年四月一日 朔風の吹き抜ける旧菱海村河原のこの地に生まれた。幼少から神童の誉れ高く 済美尋常高等小学校卒業ののち広島陸軍幼年学校 更に陸軍士官学校に進み 郷党の興望を担う青年将校となった 多くの部下の生死を握る立場となった彼は 兵士から凶作続きで疲弊した農村の苦しみを聞き 日本の前途に暗い想いを抱き始めた 昭和初期の日本は空前の経済不況 加えて政官財界は無力・無策 軍官僚も派閥抗争に終始し国民感情は閉塞感に満ち満ちていた そんな状況の中で浅一は「日本改造法案大綱」に出会い 急速に確信しそうに傾斜し 若手将校の中に同憂の士を求めて突き進んで行った 浅一ら青年将校はかくして「二・二六事件」を惹起し 尺余の雪を蹴って政府、軍部の拠点を襲撃し 占拠し 要人を死傷させ 日本全土を震撼させた 独断で千五百人の兵士を動員したクーデターは四日ののち反乱軍として軍主流派によって鎮圧された 浅一ら幹部将校は囚われの身となった 獄中 自らを「菱海入道」と号した浅一は故郷に想いを馳せながら獄中記を残した 事件から一年半たった昭和十二年八月十九日 陸軍軍法会議で死刑の判決を受けた浅一は 最愛の妻 登美子の黒髪一握りをポケットに入れて銃口の前に倒れた 憂国の情に身を焼き尽くした三十二年の生涯であった 平成の私達は武力によるクーデターを決して容認しない たか蓋棺ののちも評価が定まらない二・二六事件と磯部浅一の存在は否定しようもない事実である 輝く新世紀を前に再びこのような事件が発生しないことを祈念しつつ日本近代史に名を残したこの事件の明らかならざる全貌を解明し その決実を油谷町のこの地から全世界に発信したい 建碑はその誓いである

撰文  重中 十士朗

建碑之記にあるように二・二六事件についてはまだまだ明らかにされていないことが多いと考えられています。青年将校たちがなぜ決起したのかについては「蹶起趣意書」に記されていますが、

  • 蹶起した青年将校たちはあれだけの兵力を持ちながらそれを生かしたかといえばそうではないこと。決起後の計画が明確ではない
  • (皇道派に有利にすすんでいたと考えられている)相沢事件公判中のあの時期になぜ決起したのか
  • 昭和天皇は事件当初から青年将校たちを反乱軍として討伐の意思を強く示していたにも関わらず、陸軍はその考えと矛盾しているととれる動きをしている
  • 奇怪な大臣告示。しかも複数の大臣告示が存在
  • 正式に下達されなかった奉勅命令

などなど... 蹶起した青年将校側だけでなく、それを鎮圧をすべき軍側の動きについても不可解でそれぞれよくわかっていないことが多い。これは事件後に行なわれた裁判(東京陸軍軍法会議)が「一審制非公開、弁護人なし」だっただけでなく、本来審理すべきことについてもあえて審理しなかった「暗黒裁判」といわれるまでに不当なものだったためです。

そういったことがあるためでしょうか、「いそべの杜」には下の文章が記されていました(全景写真の左に記されているものです)。

二・二六事件で処刑された磯部浅一さんのことは、旧菱海村民にとって衝撃的な出来事でした。国家反逆の徒、いや義に殉じた耿介の人・・・・・・・。当時議論は村内を二分しました。浅一さんは、昭和二十年九月、大赦令によって復権を遂げられていました。しかしその事実は敗戦の混乱によって殆ど世間に知られていませんでした。二・二六事件の評価は後世の孝究に譲るとして、私達は、心に深い傷を負われた磯部家の苦衷を察して、語られる事の少なかった浅一さんの霊を慰める機会を窺がっていました。幸い今回、磯部家から用地のご提供を受けたのを好機に建碑を計画したところ、地域の多くの方々からご賛同とご支援を賜わり、ここに鎮魂の碑を見ることができました。感懐一入であります。いま碑を見上げ、「耿介の人」磯部浅一さんを広く世間に知らしめるべき思いを強くしています。地域の皆様の温かい志に深く感謝申し上げます。

平成十一年十一月十五日

下の写真は「磯部浅一記念館」内にある掛け軸と写真。「磯部浅一記念館」は一番上の写真にある建物のこと。しかし鍵が閉まっていて入ることはできませんでした。ちなみに、中には椅子なども置かれており、いわゆる物置のような状態です(苦笑)。

いそべの杜 記念館に飾られていた掛け軸
いそべの杜 記念館に飾られていた写真

「暗黒裁判」ははじまって三ヶ月後の7月5日には判決があり、首魁の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら17人は死刑に。12日には村中孝次、磯部浅一を除く15名の死刑が執行されます。翌年8月15日には北一輝、西田税に死刑判決が言い渡されます。そして19日には北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一の4人の死刑が執行されました。一方、事件の黒幕と疑われていた皇道派の巨頭だった真崎大将は9月25日に無罪の判決があり、二・二六事件のすべてが終わったのでした。

二・二六事件についてはまだまだ記すべきことがありますが、私には難しい... しかし、非常に多くの書籍がでていますので、興味をもたれた方はぜひ手にとって読んでみてください。

二・二六事件までに発生した事件

二・二六事件が発生するまでにも軍人によるクーデター未遂事件などが発生しています。これらの事件について少しだけ記しておきます。

1931 (昭和6)
三月事件
十月事件
1932 (昭和7)
五・一五事件
1933 (昭和8)
救国埼玉青年挺身隊事件
1934 (昭和9)
陸軍士官学校事件
1935 (昭和10)
相沢事件
1936 (昭和11)
二・二六事件

三月事件・十月事件はともに陸軍中堅幹部が計画したクーデター事件(未遂)。桜会という組織が中心となりました。この十月事件後、陸軍ではいわゆる宇垣派が中央から追放され、荒木貞夫を中心とする皇道派が勢力を拡げていきます。また、十月事件における幕僚たちの動きに失望した青年将校達は幕僚と対立していきます。

五・一五事件は海軍青年将校を中心とした反乱事件。犬養毅首相を殺害。しかし青年将校の行動に対して理解する向きも少なくなく、裁判では助命嘆願運動が起こり結果として判決は軽いものとなりました。

救国埼玉青年挺身隊事件はのちに二・二六事件の首魁のひとりとなる栗原安秀の教育を受けた幹部候補生、下士官たちが計画した内乱陰謀事件(未遂)。

陸軍士官学校事件はやはりのちの二・二六事件の首魁となる村中孝次、磯部浅一たちがクーデターを計画していたというでっちあげにより陸軍憲兵隊に検挙された事件。村中孝次、磯部浅一たちは証拠不十分で停職となります。2人はこのでっちあげを主導した辻政信、片倉衷、塚本誠を誣告罪で訴えるとともに「粛軍ニ関スル意見書」を配布。「粛軍ニ関スル意見書」には三月事件・十月事件の真相や自分たちの国体観が記されており、この文書が国内だけでなく海外でも大反響を起こします。そのために村中孝次、磯部浅一の2人は免官に。その後、2人は永田鉄山を中心とする幕僚派への攻撃を強めていきます。

陸軍士官学校事件の後、皇道派の真崎甚三郎教育総監が更迭されます。

相沢事件は皇道派の考えを理解する相沢三郎(陸軍中佐)が、真崎教育総監更迭を統帥権干犯と反発し、永田鉄山軍務局長を斬殺した事件。この事件の公判中に二・二六事件が起こりました。

2013.05.03追記

下にも紹介している「私の昭和史 二・二六事件異聞」を読み終わりました。著者の末松太平氏はいわゆる青年将校、しかも中心人物の一人。二・二六事件には直接関与していませんが、禁固4年の判決を受けました。この「私の昭和史 二・二六事件異聞」を読むことで、ひとくちに青年将校といってもベクトルは同じ方向でもひとつの考えのもとにまとまっていたわけではなく、いろいろな考えがあったということをあらためて感じました。

もし、二・二六事件が起こることなく推移してたら、違った昭和となっていたのではないかと思われます... よりよかった方向か、悪かった方向かはわかりません。ただ、青年将校たちが当時の国民が貧窮している状況を憂い「なんとかしないといけないと考えたこと」自体は決して悪いものではなかったようのではないでしょうか。

コンテンツメモ

  • 訪問日:2013.03.16
  • 場所:山口県長門市
  • 行程:山陽道-国道316号-国道191号
  • EOS 7D + EF-S 15-85 F3.5-5.6 IS USM

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