安芸の国から

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旧帝国陸軍:第二総軍

2015年3月現在、広島駅北口では再開発が進んでいます。二葉の里と呼ばれるこの地域には、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年4月に第二総軍の司令部が設置されました。

陣歿軍人軍馬追悼之碑

最初に:この場所には騎兵第五聯隊がおかれていました

このページのコンテンツは「第二総軍」なわけですが、二葉の里にある上写真の碑は第二総軍に直接関係する碑ではありません。「陣歿 軍人軍馬 追悼之碑 陸軍中將 鈴木莊六書」とあります。そして碑のうらには次のように記されています。

騎兵第五聯隊創立以来各戰役ニ於ケル戰病歿軍馬ヲ追悼スルノ餘リ西伯利出征凱旋ノ秋建之

大正九年十一月十八日 騎兵第五聯隊将卒一同

この碑のまわりには別の碑もあります。

忠節

そう、この場所には騎兵第5連隊がおかれていました。明治23年に騎兵第5連隊が置かれたこの場所に終戦間際の1945(昭和20)年4月、第二総軍の司令部が置かれました。

第二総軍とは

第二総軍は1945(昭和20)年9月以降にも予想される米軍の本土進攻に対応するための計画「決号作戦準備要綱」を実施するために新設された大本営直轄の決戦統帥組織のひとつです。(第二総軍は)鈴鹿山系よりも西の陸上作戦を担当する総軍でした。「総軍」は第二総軍のほかに、関東方面を担当する第一総軍、航空部隊を指揮する「航空総軍」が新設されています。

第二総軍は上記のように鈴鹿山脈より西を担当するのですが、具体的には司令官を畑俊六元帥とし、第15方面軍(近畿、中国、四国)、第16方面軍(九州)を統率し作戦を実施することとなっていました。

「決号作戦準備要綱」では決一号~決七号まで作戦が立てられていましたが、大本営は決三号(関東地方)と決六号(九州地方)と考えていました。これは特に九州四国方面に於ける応急作戦準備を(他地域よりも早い)6月上旬とするとあること、作戦要綱の要則に「主戦面は太平洋及東支那海正面とし戦備の重点を関東地方及九州地方に保持す」とあることなどからもわかります。

それにしてもこの「決号作戦準備要綱」を読んであらためて感じるのは... 8月15日に終戦を迎えることなく本土決戦が行なわれていたらどうなっていたのだろうということ。たとえば作戦要綱には「帝国陸軍は速に戦備を強化して敵必滅の戦略態勢を確立し主敵米軍の侵寇を本土要域に於て邀撃す」や「特に軍民一致擧國皆兵たる傳統の精髄を發起して作戦目的を完遂を期す」とあるのですが、十分な武器はもちろんのことそもそもモノ自体すらなく、正規の軍人は少ない、制海権も制空権もない、しかも圧倒的な火力の差がある相手にどんな戦いができたのか。

第二総軍司令部の場所 米軍が1945年7月25日に撮影した写真より

話が少しそれてしまいました。1945(昭和20)年4月8日の大陸命1297号により、各総軍(航空総軍には大陸命1298号)に戦闘序列が下命されました。この命令により、広島市(二葉の里)にあった旧騎兵第5連隊本部に第二総軍司令部がおかれたというわけです。

国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスに米軍が1945(昭和20)年7月25日に撮影した写真がありました。それをトリミングしたのが上写真。青く囲んだ場所が第二総軍司令部の場所です。これとは別に地下司令部を構築中でした。

しかし1945(昭和20)年8月6日の原子爆弾で第二総軍司令部は壊滅的な被害を受けます。また、8月15日に終戦を迎えたことにより本土決戦は避けられたのでした。

参考にした書籍など

このページの公開日:2015.03.28

コンテンツメモ

  • 訪問日:2015.03.20
  • 場所:広島市東区
  • 行程:バス
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