大和ミュージアム:企画展「呉と潜水艦」
5月9日に大和ミュージアムで行なわれている企画展「呉と潜水艦」(期間:平成19年4月27日~6月18日)を観に行ってきました。呉は海軍工廠として古くから潜水艦研究・建造の拠点となっていました。日本における潜水艦の歴史を振り返るとき、呉(海軍工廠)ははずして振り返ることはできません。
展示内容は以下の三部構成になっていました。
- 潜水艦とはなにか? ~原理としくみ~
- 潜水艦の時代的変遷 ~呉工廠と潜水艦~
- これからの潜水艦 ~海洋開発・海底探査~
それぞれについてパネルで説明されていました。潜水艦の時代的変遷では江戸時代の潜水艦構想として「うつろ船」の模型がおかれていました。はじめてきく名前でしたが、江戸時代のころから潜水艦は思想として存在してたんですねぇ~(驚)。
日本海軍の潜水艦
太平洋戦争の時代、潜水艦は伊号16潜や呂号35潜といった感じで伊号xx潜、呂号xx潜という名がついていました。カンタンに言ってしまうと、伊号と名がついているのは排水量が大きな潜水艦、呂号は中型ということになります。飛行機を搭載できる潜水艦まで運用していた日本海軍の潜水艦の使い方に関しては否定的な意見が多いですが、素人的な考えですが、すべてにおいて精神論がまかりとおり、電探(レーダー)をはじめとする技術開発がおろそかになっていたということが根本にあるような気がします。技術が後れているから、精神論に走るしかなかったのかもしれませんが・・・
上は呉海軍工廠の施設配置図です。潜水艦の桟橋は現在のアレイからすこじまですね。画像右パネルに潜水艦部の説明が書かれているのですが、それによると呉海軍工廠潜水艦部は昭和4年に設置されたとのこと。そして驚いたことに、呉海軍工廠潜水艦部独自の工場をもっていなかったようです(驚)。そんなファブレスな(?)呉海軍工廠ですが、日本海軍で建造された234隻の潜水艦のうち51隻が竣工したそうです。
伊号潜水艦「巡潜型」
太平洋戦争時の主力潜水艦となった巡潜型の模型がありました。巡潜型とは長距離哨戒型の潜水艦です。巡潜型はさらに、旗艦設備を持つ甲型、旗艦設備を持たない乙型(これらは水偵を搭載)、水偵を搭載せずに雷装を強化した丙型と分類されます。
上画像奥のグレーの潜水艦が巡潜丙型(伊16型)の伊号16潜、手前の黒いのが巡潜乙型(伊15型)の伊号37潜です。伊号37潜の艦首に水偵がのっているのがわかります。また、艦橋後ろから艦尾にかけても「何かしら」のってるのですが、ちょっとわかりにくいですね。ということで、トリミングした画像を下に。
伊号16潜にのっているのが甲標的、伊号27潜にのっているのが回天です。それぞれ甲標的、回天の母艦として使用されました。甲標的は真珠湾攻撃時から泊地攻撃に用いられました。また、回天は敗戦が色濃くなってきた時期にでてきた特攻兵器(人間魚雷)です。ともに損害ばかり大きく戦果のほどは・・・ と言われていますが、こういったところにも技術開発よりも精神論に頼っていた(?)トコロが出ているのではないかと想像します。
伊号潜水艦「海大型」と「潜特型」
主力だった「巡潜型」のほかにも伊号潜水艦には他の型が存在します。それが「海大型」と「潜特型」です。「海大型」は艦隊に随伴して行動することを目的とした潜水艦です。上記した巡潜型は哨戒、海大型は艦隊に随伴するための水上速力と攻撃力が重視されていました。一方、潜水空母とも呼ばれる「潜特型」は山本連合艦隊司令官により、攻撃機(特殊攻撃機「晴嵐」)を複数搭載し、パナマ運河を攻撃するという構想から生まれたという説があります。
上画像は奥のグレーのものが新海大型(海大7型:伊176型)の伊号176潜、手前の黒いのが潜特型(伊400型)の伊号401潜です。伊号401潜には翼を広げた晴嵐と翼が折りたたんである晴嵐がのっています。結局、終戦までにパナマ運河を攻撃することはもちろんのこと、計画変更後のウルシー環礁に対する攻撃すら実施する前に終戦を迎えたためにその実力は定かではありません。
ただ、ここまで大きな潜水艦は当時存在しなかったということもあって、日本の潜水艦建造技術はたいしたものだったと思われます。もっとも、他ではここまで大きな潜水艦を必要と考えなかったために建造しなかったとも考えられなくもありません。また、建造技術はたいしたものであったとしても、電探などの技術が遅れていたということを考えると、活躍することは小説の中のようにはナカナカいかなかったのではないかと思います。
潜水艦(旧帝国海軍)に関連する書籍
私の手元にある潜水艦(旧帝国海軍)に関する書籍です。
このページの公開日:2008.10.14