旧帝国陸海軍:広島大本営跡
広島城内にある大本営跡を観にいってきました。大本営というのは戦時(事変も含めて)に設置される天皇直属の陸軍・海軍に関する最高統帥機関です。そんな大本営が東京を離れ、広島に設置された期間がありました。それは日清戦争のとき。1895年に明治天皇が戦争指揮のために広島に移り、あわせて大本営も広島に移ってきたのです。国家元首の天皇が滞在し、臨時の帝国議会も広島で開催されたということで、一時的に広島が首都機能をもったとも言うことができます。
広島大本営跡
広島大本営跡(玄関跡)と碑石
ところで「日清戦争時にどうして広島に大本営が移ってきたか」ですが、その理由は司令部の原則として「戦地に近いほうがよい」という前提で「広島が山陽鉄道の(当時の)西端」だったこと、補給物資の積み出しに「宇品港」の存在が大きかったのだろうと考えられています。また、その宇品港までの鉄道「宇品線」がわずか17日の突貫工事で開通した話は有名(?)です。
さて、碑石が写っています。この碑石、よくみると上のほうが消されているのがわかると思うのですが、「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」の"史蹟"の文字が消されています。原爆によって大本営の建物はなくなり、その跡しかないから消されたのでしょうか?
ちなみにこの碑石、向かって左側(西側)には「昭和十三年三月建設 文部省」と書かれているようですが、やはり"文部省"の文字が消されています。さらに記すと、向かって右側(東側)にも文字が書かれているのですがこちらは「存」の字が読めるだけで、あとはまったく読むことができません。いったい、なんて書かれていたのだろう?、どうして消されたのだろう?と感じてしまいます。
広島大本営跡(東側建物跡)
玄関のある建物の東側にある建物跡。こちらは石材もかなりなくなっています。
広島大本営跡(東側建物通路跡)
2つの建物を結ぶ通路(?)の跡です。
広島大本営跡(皇后滞在場所)
西側のほうに少し離れて建物跡があるのですが、そこは明治天皇の皇后(昭憲皇后)が滞在した場所跡だそうです。ちなみに昭和天皇や現在の天皇には側室はいないようですが、明治天皇には側室がいらっしゃったようですね。そして大正天皇は側室(権典侍:柳原愛子)の子だったそうです。
聖蹟:明治天皇が使った古井戸
こちらは明治天皇が広島に滞在中に使った古井戸です。書かれている文章は上画像左側と右側でそれぞれ次のようになっています。
聖蹟 明治天皇日清戦役ノ際 廣島御駐輩中ノ御用井
聖蹟此処ニ在リ朝夕之ヲ仰グ 聖徳敬慕ノ懐愈々深ク 聖諭奉禮ノ念益々切也
この古井戸の場所ですが、広島城を出て道を挟んだところ(バスセンター側、ひろしま美術館裏)にあります。広島城や大本営跡を見るときは一緒に立ち寄られてはどうでしょう?
番外:中国軍管区司令部 地下通信室跡
こちらは護国神社横にある中国軍管区司令部の地下通信室跡。書かれている説明には以下のように書かれています。
中国軍管区司令部の地下通信室(爆心地から約700メートル)
広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の作戦司令室、通信室が設けられていた。この通信室では、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。
原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。
地下通信室入口の裏側(?)へのぼってみるとこんな感じ。煙突のようなものは通風孔でしょうか?通常は中に入ることはできませんが、入ることができることもあるそうです。機会があれば入ってみたいですが、無理だろうな・・・
広島大本営跡、広島城にあることは知っていたのですが気にすることもなく忘れていました。が、先日購入したGOさんの書籍「呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック」を読んで出かけてみようかなって。あらためて考えてみると、広島は昔から軍都だったのがわかります。呉の海軍工廠に広島の陸軍各施設(陸軍三支廠など)・・・ 陸軍三支廠についても、いつか観にいきたいと思っています。
このページの公開日:2009.09.23