旧帝国海軍:旧呉鎮守府長官官舎
1月24日に呉市の入船山記念館に出かけました。これまで何度も呉に出かけているわけですが、入船山記念館に行くのははじめてだったりします(汗)。
旧呉鎮守府長官官舎
旧呉鎮守府長官官舎(正面)
こちらが入船山記念館のメインといえる旧呉鎮守府長官官舎。この建物は明治38年(1905年)に建築されたものです。もともとは明治22年(1889年)の呉鎮守府の開庁にあわせて軍政会議所兼水交社が建てられ、その後明治25年から長官庁舎として使われました。しかし、明治38年の芸予地震で一部が崩壊。その後に建てられたのが今の建物だそうです。
旧呉鎮守府長官官舎 和館部
旧呉鎮守府長官官舎は洋館部と和館部からなっています。こちらは和館部を外から見たところ。和館部は旧呉鎮守府長官官とその家族の住居として使われていました。
旧呉鎮守府長官官舎 洋館部 客室
こちらは洋館部の客室です。この洋館部では壁紙に日本国内に数箇所しか現存しない金唐紙(きんからかみ)が使われているそうです。この部屋の隣には食堂がありました。戦時にはこの客室や食堂で、どういった話がされていたのでしょう?
旧火薬庫
こちらは旧火薬庫。現在は呉出身の画家が描いた絵が展示されています。もともとは警固屋高烏砲台跡にあったものを移転して復元したものだそうです。
旧呉海軍工廠塔時計
入船山記念館入口にあるのがこの旧呉海軍工廠塔時計です。この時計は大正10年(1921年)に設置され、終戦まで時を刻んでいたそうです。その時計が昭和46年(1971年)に入船山記念館内に移設。昭和56年(1981年)にこの場所に復元して時計としての機能を回復したそうです。
水蓄式油槽鉄蓋
水蓄式油槽鉄蓋
呉市広町虹村の旧海軍燃料タンク基地にあった水蓄式油槽の鉄蓋です。
従来の地上タンクでは、保安防備上での問題点が多くありましたが、約40mの粘土層であったこと、また地下水位が適当であったことから水蓄式油槽の方式が採用され、大正15年(1926年)から昭和17年(1942年)にかけて約120基(1基の容量は5,000~10,000トン)が建設されました。
燃料タンクといえば、真珠湾攻撃のときに燃料タンクを破壊しなかったことが米軍を安堵させたという話があります。日本軍は艦艇の攻撃を優先し、燃料タンクや工廠を攻撃することがなかった。そういった考え方が少なからず戦争の行方に影響を与えたのではないだろうかと感じるのは私だけではないはず... もちろん、最終的には絶対的な物量差により日本が負けていたでしょうが。
旧呉鎮守府長官官舎、派手さはありませんが、とても趣のある建物だと感じました。しかし日曜日にも関わらず、見かけた観光者は数人程度... 大和ミュージアムからも遠くない場所なので(歩くのは少し辛いですが(苦笑))、呉市ももう少し取り上げたらいいのではないかって。そんな旧呉鎮守府長官官舎ですが、興味のある方はぜひ一度行ってみてください。
このページの公開日:2010.02.02