安芸の国から

安芸の国に暮らすおじさんのお出かけ記録です

旧帝国海軍:軍艦大淀戦没者碑

江田島の軍艦大淀戦没者碑を訪れました。正直なところ存在を知っていたわけではありません(苦笑)。海辺の新鮮市場に出かけたときに時間がはやくて少しドライブしてるときに道標を見つけて... たまたま訪れることができたのでした。

軍艦大淀戦没者碑への案内1

大淀戦没者碑

最初に大淀の説明を少し・・・ 大淀は昭和18年(1943年)2月28日に竣工した軽巡洋艦です。もともとは潜水戦隊の旗艦として建造されました。潜水艦部隊が漸減邀撃を行なうために航空機による偵察を実施し、各潜水艦に指示を与えるのが目的です。そのため、航空搭載能力が重視され44メートルにおよぶカタパルトによる巨大な格納庫や射出機を持っていました。

しかし当初考えられていた漸減邀撃など行なうことはなく... 特殊な艦でしたが、旗艦として設計されたが故の通信能力により、太平洋戦争末期には一時期だけですが連合艦隊の旗艦となりました。

軍艦大淀戦没者碑

こちらが大淀戦没者碑です。ここでも碑文を最初に記しておきます。

軍艦大淀戦没者碑誌

太平洋戦争の末期 日本国内は長期にわたる戦争のためあらゆる物資が極度に欠乏し南海に数々の功績を残した当時の最新鋭巡洋艦大淀も 重油不足により 乗組将兵と共に 江田島湾の奥深く 飛渡瀬内海沖にその英姿をかくしていた

昭和二十年七月二十四日未明のこと米国海軍機動部隊は 突如として 土佐沖に姿をあらわし 艦砲射撃を行うと同時に 艦載機による本土攻撃をはじめた 不幸にも大淀は それらの艦載機の発見する処となり 約一時間におよぶ 波状攻撃をうけた 大淀乗組の将兵は これに屈することなく機銃 高角砲 主砲までも砲門を開き 迎撃を敢行した 然し航空機の波状攻撃にはおよばず 戦死傷者は続出し 艦内各所に火災が発生し 猛威をふるうに至った

米海軍艦載機は その後も攻撃の手をゆるめることなく 五日間断続的に 攻撃を繰り返した

艦上に炸裂する爆弾 天空も裂けよとばかりに火を吹く主砲 そして高角砲 間断なくうち続けられる機銃 せまい内海を 尊い血潮で 紅に染めつつ 勇敢なる将兵は 激戦を続けた このような極限状況下にあって 当時の飛渡瀬警防団および国防婦人会は 戦闘の合間をぬって燃え続ける艦の消火活動や負傷兵の救出 手当等に 必死の活躍を続けた 然しその甲斐もなく 昭和二十年七月二十八日 遂に軍艦大淀は 十発以上もの至近弾直撃弾により 浸水はなはだしく 横転し 内海沖に没した この間 草間四郎大尉以下二百七十余名の若き生命は 祖国の栄光を信じつつこの内海に散華された

多くの遺体を茶毘にふす煙は 飛渡瀬の空を 三昼夜覆い 純朴な島民の涙をさそった 再び繰り返してはならない 戦争の惨状を後世に伝えると共に英霊の冥福と平和への願いをこめて 慰霊碑は建立された

この大淀は連合艦隊旗艦の役目を終えた後は、軽巡洋艦としてレイテ沖海戦などに参加しました。その後はこの碑文にあるように江田島湾へ。そしてハルゼーの米第三艦隊第38任務部隊艦載機による攻撃により利根と同じ7月28日に大破、沈没してしまいました。

軍艦大淀戦没者碑横にある大淀の模型

戦争末期には艦船を動かすための重油もなく、飛行機を生産するための物資もなく、生産するための工場もなく、攻撃といえば特攻ばかり... いったい何のために戦争を遂行していたのだろうと感じます。

軍艦大淀戦没者碑への案内2

戦没者碑までここから300mほど。途中、カキ工場(?)があるのですが、そのまま通り抜けて行くことになります。私が出かけたときは作業をされていたので断って通らせてもらいました。行かれる方は引き返さないようご注意ください。

大淀戦没者碑の場所


より大きな地図で 軍艦大淀戦没者碑 を表示

このページの公開日:2010.06.20

コンテンツメモ

  • 訪問日:2010.06.12
  • 場所:広島県江田島市
  • 行程:国道2号 - 国道31号 - 国道487号 ・・・
  • EOS 40D + EF-S17-85 F4-5.6 IS USM

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