旧帝国陸海軍:靖国神社の遊就館
靖国神社に出かけたページで記したように、6月6日は遊就館にも出かけました。遊就館は「武人のこころ」にはじまり、明治維新から太平洋戦争(大東亜戦争)までを22部屋の展示室と2つの映像ホールで展示しています。
展示室で撮影可能なのは回天記念館や陸奥記念館と違って玄関ホールのみとなっています。大展示室の兵器すら撮影できないのが残念ですが、これは施設の考え方だと思いますので、仕方がないのでしょう。
そのようなわけなので、撮影可能な建物外と玄関ホールを撮ってきました。
遊就館の建物外
特攻勇士を讃える
こちらは「特攻勇士を讃える」像。左に書かれている文を記します。
戦局がいよいよ悪化した大東亜戦争の末期、
陸軍航空西尾少佐以下一三四四名、義烈空挺隊奥山少佐以下八八名、戦車隊丹羽准尉以下九名、海上挺進隊岡部少佐以下二六六名、海軍航空関大尉以下四三六名、特殊潜航艇岩佐大尉以下四三六名、回天上別府大尉以下一〇四名、震洋石川大尉以下一〇八二名、計五八四三名の陸海軍人は敢然として敵艦船等に突入散華され今日の平和と繁栄の我が日本の礎となられた。
その至純崇高な殉国の精神は、国民ひとしく敬仰追悼し、永久に語り継ぐべきものである。
平成十七年六月二十八日
財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会
5843名... 太平洋戦争全体での戦死者の割合としては大きくはないでしょう。ただ、特攻という理不尽な(戦争に理不尽でないものがあるかどうかは別として)手段による死を受け入れる、受け入れないといけない状況。皆が「国のため」なんて考えをもって同じ心境で特攻を行なったなんて考えていませんが、だからこそ、こういった死をするしかなかった方々がいることは忘れてはいけないと思います。
青銅八十封度(ポンド)陸用加農砲
この加農砲は1854年に湯島馬場大筒鋳立場で鋳造、品川台場に据付けられていたものだそうです。
青銅百五十封度(ポンド)陸用加農砲
この加農砲は1849年に薩摩藩で鋳造、天保山砲台に据付けられていたもので、明治初年大阪砲兵工廠が砲身に施條をしたそうです。
護国 海防艦
海防艦の大切な役割のひとつは、輸送船団を護衛すること。資源のない日本は、どこからか資源を輸送してこないことには戦争を遂行することはもちろん、国の運営事態ができません。そんな輸送船団を護衛する海防艦でしたが、構造・兵器ともに優れていたとはいえず、連合国側の航空機・潜水艦にその多くが沈められてしまいました。結果、戦争末期には資源を運んでくるはずの輸送船団は壊滅、戦争遂行のために必要な資源は枯渇していったのでした。
目立つことはありませんが、シーレーンを護るために劣る装備で決死の戦いを行なった海防艦乗組員の方々、そして決死の輸送を行なった輸送船乗組員の方々のことは忘れてはいけないと思います。最初の特攻隊員とは違いますが、圧倒的な戦力差をわかっていても、国のために物資を輸送することは特攻に等しいものがあったのではないかと感じないわけにはいきません。
玄関ホール
続いて玄関ホールへ。この玄関ホールまでは無料で入ることができます。
三菱零式艦上戦闘機五二型(A6M5)
玄関ホールに展示されている零戦五二型です。私が名前をよくきくのは初期型の二一型ですが、五二型は二一型よりも主翼の両端が短く円形に整形されているそうです。エンジンも換えられて速度もかなり向上したとのこと。ちなみに大和ミュージアムにある零戦は六二型だったりします。
機銃は「二十粍機銃」で初期型の二一型に搭載されていたもの。この「二十粍機銃」は、最後まで航空機に搭載される機銃の主力として活躍したそうです。
九六式十五糎榴弾砲と八九式十五センチ加農砲
左側の小さいのが九六式十五糎榴弾砲、右側の大きいのが八九式十五糎加農砲です。この九六式十五糎榴弾砲は野戦重砲兵第一連隊第四中隊に所属し、沖縄防衛線で奮戦したものの、糸満市真壁の陣地で昭和20年6月23日全弾を撃ち尽して中隊は砲とその運命を共にしたとのこと。
一方、この八九式十五糎加農砲はやはり沖縄戦において独立重砲兵第百大隊が使用し、修理附近の陣地から嘉手納の飛行場を制圧する等、軍砲兵の骨幹として活躍したそうです。
太平洋戦争末期の激戦地で実際に使用されて、まがりなりにも平和な日本でこうやって展示されている火砲。いろいろと思わずにいられません。
泰緬鉄道C56型31号機関車
この機関車は太平洋戦争に90両が南方に徴用されたうちの1台でタイで活躍し、泰緬鉄道の開通式に参加した機関車だそうです。
玄関ホールで見ることができるのは、ここまで。大展示室には模型も含めて桜花、震洋一型、九七式中戦車、回天一型、彗星、そのほかにも多くのものが展示されていました。あと大展示室ではありませんが、伏龍の像がありました。特攻兵器の中でもかなり異色な伏龍... こんな特攻兵器をつかってまで戦争を遂行しようとしていたのはなぜだろう... やはりこういった「場所」には考えさせられること、そして考えないといけないことが多い。
このページの公開日:2010.07.03