戦争遺構:甲山防空監視哨
10月2日に旧甲山町(現世羅町)にある甲山防空監視哨に出かけました。甲山防空監視哨は原爆を投下したエノラゲイが広島へ向かうのを確認した監視硝のひとつです。エノラゲイを確認した監視哨は他に松永監視哨(福山)、三次監視哨(三次)などありますが、現存しているのはこの甲山防空監視硝のみです。
山の上にある甲山防空監視哨
防空監視哨は空を監視するという役目なので、やはり見晴らしがよいところにあるわけで・・・ この甲山防空監視哨も標高500mほどの古城山にあります。
「蘇る爆音」と記された碑がありました。平成8年3月に甲山防空監視哨保存会の方々が建立された碑のようです。監視哨の入口近くに説明板があるのでよってみます。
書かれている説明はこちらです。
甲山防空監視哨
太平洋戦争(昭和十六年~昭和二十年:1941~1945)のとき、空襲にそなえて県内の要所に防空監視哨がつくられた。
この監視哨は、「尾道防空監視隊第十三番甲山防空監視哨」と称し、昭和十七年(1942)夏、設置された。
毎日八名が詰め、二名ずつ二時間交代で昼夜通して監視した。昭和二十年(1945)広島に原爆が投下されたときは、飛来機をいちはやく発見通報しており、爆発時のものすごい閃光も目撃している。
監視哨が戦後四十年を経て、なお当時のままの姿で残っているのは県内でもめずらしい。
戦争は静かな農村地帯までも巻き込むことを語り継ぎ、平和の貴さを知り平和を願う貴重な資料として保存するものである。
昭和六十三年(1988)七月十五日
甲山町教育委員会
石垣のよこにある階段をのぼると、古城山展望台があります。その手前に金網に囲まれた防空監視哨の上部分を見ることができます。
最初にも記したようにこの甲山防空監視哨はエノラゲイを飛来を発見した監視哨のひとつです。エノラゲイが福山上空から広島市へ向けて飛行しているときに発見し、呉鎮守府および中国軍管区に通報しています。しかし偵察機として判断されたために空襲警報発令が遅れ、原爆による被害が大きくなってしまいました。
エノラゲイの飛行経路について
エノラゲイの飛行経路については現在もはっきりしていません。もっとも一般的に言われているのは、テニアンを飛び立ち硫黄島上空を過ぎ四国室戸岬東から四国上空へ、その後瀬戸内海へ抜け福山から広島というもの。しかしこれとは異なる考えもあります。それは四国足摺岬西から豊後水道へ入り国東半島を北上し広島へを一度通過し、その後福山から再び広島へ戻って原爆投下というもの。
後者は空襲警報が一度解除された後に再度戻って原爆を落とすことにより、被害を大きくしようとしたという意見です。アメリカにしてみれば、人体実験の場でもあったでしょうから、空襲警報解除後に爆弾を落とすことができるような作為があったとしてもおかしくはないのかなと感じます。
そういった意味では3機という少ない編隊で偵察と思わせ、空襲警報を出さないように考えさせたのかもしれません。また、当時すでに日本は本土決戦に備えて機体や燃料なども温存しており、偵察機は積極的に迎撃することはなかったようなので、迎撃されることを避けたのかもしれません。
ただ、四国の陸軍戦闘機がエノラゲイを捕捉・迎撃しようとした記録があります。もちろん、迎撃はできず・・・ もし迎撃に成功し、原爆を落とすことができなかったら今とは違う歴史になっていたかもしれません。もっとも、8000mを超える高高度に上昇したB-29を落とすことは局地戦闘機でもかなり難しかったとことでしょう。
原爆については悪には違いありません。しかし、原爆を落とされることなく戦争を継続し、ダウンフォール作戦が実施されていたとすれば大本営による「一億玉砕」の言葉どおり日本は壊滅的な状況になっていたのではないかと思います。だからといって原爆を肯定するわけではありませんが、日本で戦争継続を主張していた者たちへのスレッジハンマーになったのではないでしょうか。
おまけ:古城山展望台からの眺め
甲山防空監視哨近くにある古城山展望台からの眺めです。さすが防空監視哨がある場所だけに見晴らしがとてもいい。8月6日朝もこの空をとんでいくB-29を見たのでしょう。
このページの公開日:2010.10.11