旧帝国海軍:駆逐艦「雪風」の主錨
もう3週間ほど前になりますが、江田島の旧海軍兵学校(幹部候補生学校・第1術科学校)を訪れました。私が最後に旧海軍兵学校を訪れたのは昨年10月の江田島地区自衛隊記念日記念行事以来なので1年ぶり。校内見学は2009年4月以来なので2年半ぶりです。
今回訪問の目的は駆逐艦「雪風」の主錨
今回旧海軍兵学校を訪れたのは、駆逐艦「雪風」の主錨を見たいと思ったから。「雪風」は当時の最新鋭となる陽炎型駆逐艦の8番艦として就役し、太平洋戦争を生き抜いた数少ない駆逐艦です。同型の駆逐艦やその改良型となる夕雲型駆逐艦の中で太平洋戦争を生き抜いたのは「雪風」のみでした。
となりに掲示されていた説明を記します。
駆逐艦「雪風」の主錨
駆逐艦「雪風」は日本海軍の陽炎型駆逐艦18隻中の1隻で、昭和15年1月に佐世保海軍工廠で完成した。太平洋戦争では戦史に残る主要な海戦にはすべて参加、沖縄特攻にも戦艦「大和」と共に行動したが、無傷で生還した。戦後連合軍に接収され、当時の中華民国海軍に引渡された。
軍艦「丹陽」と改名した雪風は同海軍の旗艦として活躍していたが昭和44年台風で船底が破損したため解体された。
この錨は雪風の記念品として昭和46年10月22日、同国政府から雪風保存会に送られ、同会から海上自衛隊に寄贈されたものである。
雪風はガダルカナル島への部隊輸送・物資補給のために行なわれた作戦(鼠輸送/東京急行)にも参加しました。輸送任務など考慮されていない駆逐艦なので、効率は悪いのは当たり前・・・ しかし高速の船でなければ撃沈は必至・・・ 制空権を奪われた環境においての兵站の難しさということでしょう。
さて、なぜ「雪風」の主錨を見たいと思ったかですが、それは先日『駆逐艦「神風」電探戦記』(「丸」編集部/光人社NF文庫)に収載されている『愛しの「雪風」わが忘れざる駆逐艦』(田口康生)を読んだことから。田口康生氏は1944(昭和19)年はじめに通信士として雪風に着任、その後航海長、砲術長をされ雪風とともに終戦を迎えられました。その著書の中で書かれていた寺内艦長のこと。
1944(昭和19)年にタウイタウイ泊地に進出した雪風は連日連夜対潜哨戒任務を行なっていました。ある日掃海任務を完了し泊地に帰投する際に触礁しスクリューを破損。当時航海長として操艦に当たっていた田口氏はしょげ返ります。そんな田口氏に寺内艦長は次のように言われます。
「事故当時、艦橋には艦長のオレがおって全般を指揮し、航海長の貴様が操艦に当たっていた。『雪風』の艦橋の状態は最高であったということができる。それでもなおかつ事故はおきた。オレが艦橋で指揮していたのであるから、責任はもちろんオレにある。貴様が責任を感ずる必要はない。少しもクヨクヨする必要はない」
寺内艦長といえば有名なのは神業とまで言われた操艦技術ですが、それだけでなく指揮官としてのこういった態度は今の時代でも、むしろ今のような時代だからこそ見習うべきであると感じます。
そんなことを感じていたときに、江田島の旧海軍兵学校に雪風の主錨があるのを思い出したという次第。主錨を見ながら私も寺内艦長の態度を常に意識をもって仕事をしていかなければと考えたのでした。
おまけ:江田島旧海軍兵学校の大講堂
一般見学の最初に訪れる大講堂を載せたいと思います。構内の(ほぼ)全景という写真も少ないと思いまして。
まずは車寄せのある玄関。このページの最初の写真でもわかりますが、この日はとてもよい天気でした。
そして大講堂内。大講堂はこのようになっています。ちなみに入口附近から35mm換算で16mmの画角で撮っています。多くの見学者がいる中で、このように人が映りこんでいない広角の写真を撮るのはナカナカ苦労します(^^(^^;。
最後に演壇。中央に天皇陛下が座る玉座があります。
参考にした書籍
このページの公開日:2011.10.16