旧帝国海軍:第六潜水艇殉難者記念碑
1月15日に第六潜水艇殉難者記念碑を訪問しました。第六潜水艇の碑といえば、呉市の鯛乃宮神社にもあります。鯛乃宮神社には2008年12月に訪れました。今回訪れた岩国の第六潜水艇殉難者記念碑については、当時から存在自体は知っていたのですが正確な場所がわからず、やがて忘れてしまいました。
しかし、国道2号線を走っているとき(岩国市装束町付近)に案内板を見つけて「ここにあったのか」と、訪問させていただきました。
養気園公園にある第六潜水艇殉難者記念碑
国道2号線からわき道に入り案内板に沿って坂道をあがっていくと駐車場とはいえないような行き止まり(転回は可能です)。端に車を止めて歩いてあがっていくと辿り着きます。
左に見えるのが佐久間艇長の遺書です。中心に見えるのが第六潜水艇殉難者記念碑、右に見えるのが明治百年記念碑です。記されていた遺書を載せます。
佐久間艇長遺言
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ 我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ 以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ 希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ
沈没原因
瓦斯林潜航ノ際過度深入セシ為メ「スルイスバルブ」ヲ締メントセシモ途中「チエン」キレ依ツテ手ニテ之レヲシメタルモ後レ後部ニ満水(セリ) 約廿五度ノ傾斜ニテ沈没セリ 中略
公遺言
謹ンデ陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ 中略 瓦斯林ヲブローアウトセセシシ積リナレドモガソソリンニヨウタ 十二時四十分」
原文ノママ
艇と部下を亡くすことへの謝罪、この事故により潜水艇の発展に悪い影響がないようにとの願い、そして部下の遺族が困窮することなきようとの願いが記された遺書です。佐久間艇長の冷静な行動は「沈勇」として賞賛され、修身の教科書や軍歌として広く取り上げられました。
自分がまさに息を引きとるという瞬間に、取り乱さないことはもちろん、部下だけでなく部下の家族のことまで気遣い、想うこと・・・ いい年になった自分として、心に留めておきたい、おかなければいけないと感じます。
そして記念碑。
碑文を記します。
第六潜水艇は明治四十三年四月十五日新港沖で半潜航訓練中沈没し艇長以下十四名の乗組員が殉職されました引揚げ后艇内の状態及び艇長の遺書により全員が一糸乱れず各々の部署を守り従容として死に就いたことが判明しました潜水艇が世に出て間もない時代のこの出来事は全世界注視の的となり事故に対処した艇員の立派な態度は深い感銘を与ヘその旺盛な責任感と事を処する沈着な態度はわが国民の範としてたたえられました殉難直後地元にささやかな記念碑を建てましたが後呉鎮守府の追加手入により立派なものになり永く後世に伝へることになりました偶々昭和廿年敗戦により軍に関係あるものは事の如何を問はず軍国主義の悪名をふして一切が葬り去られ此の碑も亦同じ憂目を見ましたかくして十有余年を経た今日艇員の崇高なる精神は再び世に問はれる時が来ましたので有志相図り広く全国に訴へ浄財を得て遭難満五十年を期し再建することになりました茲に後世のためにこの次第を記します
昭和丗五年四月十四日
第六潜水艇殉難者記念碑再建期成会
この碑文にあるように敗戦後は軍に関係するものはすべて取り上げることすら悪とされてきた感があります。こういった碑が再建されたということは、戦後間もない頃とは異なっているのでしょう。しかし今でもこういった立派な軍人がいたことを伝える場はないように感じます。
碑の横では第6潜水艇の沈没場所を記しています。
沈没地点を望みます。
そして明治百年記念碑です。
誤解を恐れずに記すと、現在は太平洋戦争に関して「日本は加害者」あるいは「被爆国」ということ以外のことを教えられることがないように思います。太平洋戦争の時代に愚かな指導者がいたことは事実ですが、軍人にはそういった者だけではなく佐久間艇長のような立派な人がいたことをもっと多くの若い人たちに知って欲しいものです。
最後に地図を載せておきます。興味のある方は訪れてみてください。
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このページの公開日:2012.01.21