旧帝国海軍:海軍航空隊可部基地(国安牧場)
太平洋戦争の終戦間際、本土決戦に備えて各地に海軍航空隊の特攻基地建設が計画され実施されました。その計画は秘匿するために「牧場をつくれ」と指令が出たそうです。現在の安芸高田市にそんな特攻基地のひとつ「国安牧場(海軍航空隊可部基地)」が建設されています。
そういえばこのあたりの国道54号はまっすぐです
可部基地といいますが、場所は現在の安芸高田市八千代となります。当時の高田郡根野村、刈田村に建設の申し渡しがありました。
1948(昭和23)年3月19日に米軍により撮影された写真の一部です。国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスで見つけることができます。この写真の真ん中に走っているのが現在の国道54号線。それに沿って白くなっている部分が続いている場所があります。このあたりが滑走路となっていたのではないかと想像しています。
設営部隊は第516設営隊(田中技術中佐を指揮官として士官および曹長11名、下士官31名、兵607名)。戦時日誌によると下記のような時系列です。
- 6月1日
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指揮官(田中中佐)着任
- 6月4・5日
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機密呉鎮守府命令第350号
本月一日編成設営隊の進出地、主務任務左の通り定む(※設営隊毎に記されています)
呉海軍施設部長は施設工事に関し各設営隊長の準備を促進し6月15日迄に進出すべし - 6月18日
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機密呉鎮守府命令第402号
広島県高田郡根野村上佐々井に滑走路及び付属施設を設営すべし
現地進出完了。広島県高田郡根野国民学校内に於いて事務開始
設営作業には学徒隊や各町村の国民義勇隊が動員されています。第1期工事に毎日4,500人、第2期工事には実に毎日7,500人が動員されての突貫作業。そのため7月10日には予定していた600mの滑走路が完成。この滑走路部分に現在の国道54号線の直線部分が使われています。このほかにも格納庫が分散されて周辺の山につくられ、誘導路が滑走路から縦横に伸びています。
第2期工事では滑走路をさらに600m延長することとなり、終戦までその作業は続きました。第1期に出動した義勇隊のうち高田郡は延44,730人(驚)なのですが、第2期はさらに増えて62,481人(驚^2)の出動割り当てがありました。この作業には私のツマの祖母も加わっていたとのこと。生きてらっしゃるときにこのことを知っていれば話を聞くことができたかもしれません。
第1期工事が終わった直後には峯山空特攻隊飛神隊義部隊(特攻隊尾関部隊)の約90名の隊員が到着しました。特攻隊の本部がおかれたのがこの明顕寺です。
隊員90名のうち特攻隊員(操縦士)は25名。この部隊の飛行機は93式中間練習機(通称赤とんぼ)なのですが、複葉機で速度も大したこともありません。この赤とんぼで本当に特攻による戦果をあげることが可能だったと考えていたのでしょうか...
終戦間際の14日には出動が命ぜられ、爆装を完了させ燃料搭載までされたそうですが、15日に終戦。この可部基地から特攻機が出撃することはありませんでした。終戦となり、全機爆装を解いて4日目に峯山航空隊に全員無事に帰隊したそうです。
現在の国道54号線です。
同じ場所から撮った写真です。上が北方向(三次方面)、下が南方向(広島方面)をみた写真です。ホントにまっすぐなことがわかります。「太平洋戦争末期にこの場所から特攻機が出撃していたかもしれない」なんてことを意識しながら運転している人は皆無かと思いますが、原爆の悲惨さだけでなく、こういった歴史があった事実を若い人たちに伝えていかなければいけないのではないでしょうか。
参考にした書籍など
- JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08030302000、昭和20年6月1日~昭和20年6月30日 第516設営隊戦時日誌 (防衛省防衛研究所)
- 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
- 八千代町史 八千代町史編纂委員会/編纂
- 高田郡史 下巻 高田郡史編纂委員会/編纂
このページの公開日:2014.07.02