旧帝国陸軍:軍用食器
広島輸入車ショウを観に出かけた後、その足で広島大学病院のある広大霞キャンパスへ出かけました。目的は医学資料館で開催されている第4回ふむふむギャラリー『霞地区で発掘された大学食器 in 霞キャンパス』の見学。戦時中に使われた軍用食器などが展示されているのです。
※写真撮影およびホームページへの掲載については「広島大学総合博物館 埋蔵文化財調査部門」様の許可を得ています
発掘された軍用食器
最初にタイトルに「旧帝国陸軍」と記していますが、軍用食器は何も陸軍だけで使っていたものではなく、海軍でも使われていました。今回展示されていたのが陸軍のものだったためにそう記しています...って、どうでもよいことですね(^^(^^:。
ところでなぜこの場所で軍用食器なのかということを少しだけ記しておきます。ここは明治時代から陸軍の兵器支廠があった場所なのです。大正10年の頃には兵器庫14棟をはじめ、土塁に囲まれて火薬庫・弾丸庫5棟、火工場8棟などの建物がありました。下に記した説明文にもありますが、そこで使われたりしたものではないかと。
ということで、軍用食器です。陸軍のものを示す星章があります。
説明されていた文章を載せます。
星章がついた食器 軍用食器
白地に陸軍を示す青い星マークが焼付けられており、陸軍の施設で使用されていた食器です。厚手でしっかりした作りで、深めの皿、ボール状の鉢、大きさや高さが異なる3種類のカップが確認されています。星章は、一番大きなカップには外側に、その他のものには内側につけられています。当時軍隊では、アルミの食器が使われていましたが、金属節約のために陶磁器製品に代用されたようです。現在の広大附属小・中・高等学校がある翠地区は、第二次世界大戦末期の昭和20年に陸軍に強制的に取り上げられた記録が残っており、その時に利用されていた食器だと考えられます。底面には「名陶」の文字が押され、名古屋製陶所(現在のNARUMI:鳴海製陶株式会社)で製作されたものであることが分かります。統制食器は「日陶製」、「岐445」、「瀬283」などの裏印が確認されました。それぞれ日本陶器(現在のノリタケ)、岐阜県土岐市や多治見市など、愛知県瀬戸市で生産されたことを示しています。
金属節約のために食器が陶磁器製品で代用される... 資源を持たない日本が、戦争を遂行するための資源を確保することができなくなっていきついた結果のひとつ。それにしても、そんな状況になっても戦争を遂行していた者たち、本土決戦まで考えていた者たちはどういった戦争終結を考えていたのだろう。
説明にある統制食器です。底面にある文字をアップにしてみたのが下の写真。
左上は「瀬」、右下は「岐」、右上も「岐」でしょうか?
そして防衛食容器。
こちらも説明が記されていました。
缶詰の代用品 陶製の防衛食容器
やや大きめのお湯呑に蓋がついたような形をしていますが、これらは戦時中の物資不足の折に缶詰の役割を果たした陶器の容器で、「防衛食容器」と呼ばれています。底面に「岐270」の統制番号(窯元を示す番号)が凸印で押されており、容器は岐阜県美濃東部の窯元で焼かれたことが分かります。側面には、「防衛食(防3)大日本防空食糧株式會社 社長小澤専七郎謹製」、蓋には「(防3)特許眞空容器」→←矢印ノクボミヲ針デツクト蓋ガ取レマス」の文字が焼付けられています。「防15」「防12」「防7」の破片も確認することができます。蓋のくぼみには穴が開いていませんので、食べられる前に捨てられたのかもしれません。中身は、肉類やイワシ、昆布、豆などが入れられたようです。霞キャンパスに広島陸軍兵器支廠が置かれた時代、宇品には同じく陸軍の缶詰工場(糧秣支廠:兵の食糧の調達や製造、貯蔵など)がありましたので、そこで作られたものが詰められたのかもしれません。
この陶器、「防衛食」と書かれていますので、戦時中に何か食べ物を入れておく陶器とは思いますが、これが缶詰の代用品とは知ってなければ思いもしなかったでしょう(^^(^^;。説明にある蓋が下の写真です。
たしかに「矢印ノクボミヲ針デツクト蓋ガ取レマス」の文字が焼き付けられています。「一度やってみたい」と思うのは私だけではないはず(^^;。
「軍用食器」という単語自体、この医学資料館での企画展を取り上げたローカルニュースで見るまで知りませんでした。見る機会があまりない、興味ある物を見ることができてよかったと思います(^-^)。
参考にした書籍など
- 陸軍の三廠 ~宇品線沿線の軍需施設~ / 広島市郷土資料館
このページの公開日:2015.02.12