旧帝国陸軍:向島捕虜収容所メモリアルプレート
太平洋戦争時、尾道市向島には連合軍の兵士を収容する捕虜収容所(俘虜収容所)がありました。現在、捕虜収容所跡地近くに捕虜収容所で亡くなった英国および米国兵士捕虜の名を刻んだメモリアルプレートがあります。
太平洋戦争末期、向島に捕虜収容所を開設
私が太平洋戦争に関する情報を得たり調べたりするときには"アジア歴史資料センター"を利用しているのですが、太平洋戦争時の捕虜収容所(俘虜収容所)に関する資料は少ない。終戦となったときに多くの資料が処分されたのでしょうか。そんな捕虜収容所のひとつ、向島捕虜収容所の歴史です。
- 1942(昭和17)
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八幡仮俘虜収容所向島分所として開設。ジャワからイギリス兵捕虜100人到着
- 1943(昭和18)
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1月:福岡俘虜収容所向島分所に改編
3月:福岡俘虜収容所第11分所に改称
7月:善通寺俘虜収容所に移管され、同第1分所に
12月:善通寺俘虜収容所第1派遣所に改称 - 1944(昭和19)
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フィリピンからアメリカ兵116人到着
- 1945(昭和20)
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4月:広島俘虜収容所に移管され、同第1派遣所に
8月:広島俘虜収容所第4分所に改称
8月15日:終戦
8月20日:B29搭乗員10人到着
9月12日:帰国
向島捕虜収容所の捕虜たちは日立造船向島造船所で使役されました。太平洋戦争時の日本軍による捕虜の扱いについてはいろいろな話がありますが、私は一部の証言を除けばどの話も完全に事実のことではないがまったくの嘘でもない、事実と虚実が混ざり合い、そして何かしらの尾ひれがついていると思っています。もっとも、これは収容所の話に限ったことではないですが...
話がそれてしまいました。メモリアルプレートはもともと収容所として使われていた建物(向島紡績)にありました。向島紡績が倒産し建物は取り壊されてしまいましたが、メモリアルプレートは2013年にこの場所に移設されました。
そして移設時に新たにメモリアルプレートが設置されました。それは下の写真で右側の、向島紡績の建物で使われていたレンガに囲まれたプレートです。
左側が亡くなった英国人兵士23名の名を記したプレート、右側が亡くなった米国人兵士1名の名を記したプレートです(15日に載せたページの写真では英国人兵士のプレートがまったく見えないので、2つのプレートを移した上写真を追加しました)。戦地から日本に移送されるときの船内の環境は悪く、伝染病が拡がり兵士たちは衰弱、生きて日本についても環境はよいものではなく... まともな環境と医療が提供されていれば、命を落とすことはなかった兵士もいたことでしょう。ただ、当時の日本では十分な衣食住の環境を提供すること自体が難しかったのではないかとも感じます。
捕虜の方々は上に記したように日立造船向島工場で労働をさせられました。労働環境は安全なものではなく、食事も十分に与えられず(食事については捕虜だけでなく日本全体がそんな状況だったわけですが)、理不尽な制裁、暴力もあったと思います。どんな気持ちで日々を過ごしていたのだろう?
向島にこういったものがあるということを知らない若い人たちも少なくないと思います。あったという事実を知って、興味を持ったら自身で調べて何かしら考えてみてほしい。
最後に終戦数年後の向島の写真を。青く囲んでいるのが収容所があった場所です。そして収容所から写真右上に向かって拡がっているのが日立造船向島工場。
参考にした書籍など
- POW研究会 調査レポート 広島第4分所─向島
- 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
このページの公開日:2016.08.15 / 更新:2016.08.17