安芸の国から

安芸の国に暮らすおじさんのお出かけ記録です

旧帝国海軍:再び人間魚雷回天の基地、大津島

2009年6月に公開がはじまった「真夏のオリオン」に回天がでてくるから、というわけではありませんが昨年9月に続いて大津島へ。回天については9月のときよりもいろんなことを知ったので、また違った感じで大津島を訪れました。

回天記念館の回天レプリカ

回天記念館にある回天一型のレプリカです。全長14.75m / 直径に至っては1mしかありません。母艦となる潜水艦から発射されれば、外界との接点は特眼鏡のみという世界。こんな特攻兵器を使うようになってまで戦争を遂行しようとした当時の指導層はその先に何があると考えていたのだろう。

回天記念館の中で

回天一型の内部

回天内部

こちらはその回天一型の内部。「出口のない海」で使われた模型なのですが、これは直径1.2mとなっており、実際の回天よりもひとまわりほど大きくなっています。乗員は1名ですので、操縦はもちろんのこと特眼鏡による敵艦の確認、そして敵艦に当てるための斜角等の計算・・・ 自らを敵艦に当てるためのこと(=死に向かうこと)をすべてを自分がやらないといけません。

前回訪れたときも書きましたが、記念館に展示されている回天搭乗員の方々の遺書、回天に関する書籍を読むと、皆が自分にとって大切な何か(家族であったり恋人であったり、故郷であったり・・・)を守る・守りたいという気持ちがあったから(あるいはそう考えて自分を納得させていたのかもしれません)、自らの死を引き換えにする攻撃ができたのだろうと思います。

回天の出撃地図

回天記念館の回天出撃地図

回天の出撃地図です。1944年(昭和19年)の菊水隊にはじまり、金剛隊 / 千早隊 / 神武隊 / 多々良隊 / 天武隊 / 振武隊 / 轟 / 多聞隊 と終戦間際まで出撃しています。平生の阿多田交流館に出かけたときにも記しましたが、出撃搭乗員は延べ148名、回天を搭載した潜水艦は延べ32隻、回天作戦による戦没者は1299名だったそうです。

また、多門隊として出撃した伊58(艦長:橋本以行少佐)がグアムからレイテ島へ向かうインディアナポリス(広島・長崎へ投下した原子爆弾をテニアンへ運んだ重巡洋艦。テニアンへ原子爆弾を運んだ後、グアムに派遣されレイテ島へ向かっていた)を魚雷により撃沈した話は有名です。

菊水隊・金剛隊の特攻を発表する新聞記事

回天記念館の新聞記事

金剛隊による特攻が「神潮特別攻撃隊」として発表された1945年(昭和20年)3月の新聞記事です。このときすでに航空機による神風特別攻撃隊は発表されていたわけですが・・・

終戦後自決した橋口寛大尉

回天記念館の橋口寛大尉

回天については多くはないものの、元搭乗員の方々が証言をされていたり、本を残されています。その内容についてはWikipediaの回天のページにも書かれているのですが、兵学校出身者と予備学生出身者(予科練出身の方の本はまだ読んだことがありません)では当時の状況についてかなり感じていたことが異なるような気がします。

それは鉄拳制裁についてだったり、出撃したものの攻撃の機会なく帰艦してきた者への心無い対応についてだったり・・・ こういったことについてはまたどこかで紹介して皆に興味を持ってもらいたいのですが、今回は悪く書いてあるのをみたことがない橋口寛大尉のことを。

橋口大尉は兵学校第七十二期の方です。橋口大尉は搭乗技術もさることながら人望があったのでしょう、回天搭乗員の指導者として後輩を育てる立場でした。そのため出撃を懇願しても許可されません。何度も懇願してやっと出撃が決まったのですが、自身の回天を乗せるはずだった潜水艦が呉を出港後に攻撃を受け損傷。修理するもそのまま終戦を迎え、ついに橋口大尉は出撃することができなかったのです。

そうして出撃できなかった橋口大尉は、18日に自分が出撃するはずだった回天の操縦席に座り拳銃で自決します。指導者として搭乗員を育て、その搭乗員たちは戦死。また、同期である兵学校第七十二期の者も回天で多くの者が戦死・・・ 自分だけが生き残るということは考えられなかったのでしょう。下に橋口大尉が残した遺書(の一部)を記します。書かれている名前は同期である兵学校第七十二期の方々の名です。

君が代の唯君が代のさきくませと 祈り嘆きて生きにしものを、噫、又さきがけし期友に申し訳なし。神州ついに護持し得ず。後れても後れても亦卿達に誓ひしことばわれ忘れめや

 

石川、川久保、吉本、久住、小灘、河合、柿崎、中島、福島、土井

自決した時の年齢は21歳・・・

私も回天についていくつかの本や証言を読んでいますが、上に記したように橋口大尉のことを悪く書かれているものは見たことがありません。現場の指導者が自決した半面、軍の中枢部にいた者たちの多くはどういった責任をとったのでしょう・・・ もちろん、自決をすればよいとも思いませんし、自決自体よいこととは考えませんが、こういった方が自決することなく戦後の日本で活躍されていたら、今の日本は少しは変わっていたかもと感じます。

必死の特攻兵器なんてものはどうやっても納得できるものではありません。しかし、そんな狂った兵器のために命を落とした若者がいたということを、こんな時代だからこそいろいろな人が心に留めておいておかないといけないのではないかと思います。

回天に関連する書籍

私が読んだ回天に関する書籍、回天についての記述がある書籍です。

板倉光馬(終戦時中佐)は回天隊の指揮官、橋本以行(終戦時中佐)は潜水艦の艦長として回天を載せています。また、上にも書いたようにインディアナポリス撃沈で有名です。

このページの公開日:2009.06.28

コンテンツメモ

  • 訪問日:2009.06.13
  • 場所:山口県周南市大津島
  • 行程:山陽道 - 大津島巡航船(徳山~馬島)
  • EOS 40D + EF-S17-85 F4-5.6 IS USM

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