旧帝国陸軍:広島護国神社周辺(広島城周辺)の戦争遺構
8月15日の終戦記念日に広島護国神社へ出かけました。そのときにせっかくなので周辺の戦争遺構を訪ねることに。昨年9月に大本営跡と中国軍管区司令部 地下通信室跡をみたのですが、この日は別の2つを。
歩兵第十一聯隊跡
最初に出かけたのが歩兵第十一聯隊。場所はRCC中国放送の南側(広島市民病院側)、広島城お堀のまわりにあります。
碑と門柱です。門柱の裏には由来が書かれていました。それによると、原爆によっても消失することなく残存したこの門柱は広島市立福木保育園に保存されていたそうです。それを譲り受け、この地に移転建立したとのこと。
碑の裏には歩兵第十一聯隊の略歴と配置図が記されていました。
書かれている略歴は次のとおりです。
- 明治八年五月広島の地に創設 同年九月九日聯隊旗受領
- 明治九年十月萩の乱に出動
- 明治十年西南戦争に出動
- 明治二十七年日清戦争に出動、朝鮮、中国北部各地を転戦 同二十八年七月復員
- 明治三十三年六月北清事変に出動
- 明治三十七年四月日露戦争に出動、南満州(現中国東北部)の各地を転戦し、同三十八年十二月復員
- 大正八年七月シベリアに出兵
- 昭和十二年七月二十七日日中戦争に出動、中国全土を転戦
- 昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発、マレー作戦に参加し、のち南太平洋諸島を転戦中、同二十年八月十五日終戦となる。同年八月二十六日シンガポールにおいて軍旗を焼く。創設以来七十二年の歴史を閉じ解体する。
- この間、特に、昭和十二年日中戦争以降、歩兵第十一聯隊を母体とする藤部隊、槍部隊、開部隊、望部隊、西部第二部隊等を創設、各々克く健闘した。
ここに、聯隊跡碑を建立し、往時を偲ぶ縁とする。
昭和五十五年七月 建立
平成六年八月 改刻
歩十一会
帝国陸軍のことになると、正直太平洋戦争の頃のことでさえほとんど知らなかったりする私。最近は数冊続けて硫黄島関連の本を読んでいるのですが、他も手にとってみようかな。
広島陸軍幼年学校跡
続いて広島陸軍幼年学校跡へ。こちらはRCC文化放送の北側(基町高校側)にあります。ちなみに陸軍幼年学校とは一言でいうと「将来の陸軍幹部を幼い頃から"純粋に"育成していく機関」といった感じでしょうか。もっとも「幼い頃」といっても、13歳から3年間、あるいは14歳から2年間の学校ですが。
この陸軍幼年学校は東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に設立されました。陸軍士官学校は幼年学校出身者と一般の中学校出身者が入学しますが、主流になれるのは陸軍幼年学校出身者のみ.. 事実、太平洋戦争の頃は陸軍の中枢(陸軍省や参謀本部)は幼年学校出身者で占められていたそうです。幼い頃から将校になることを目的とし、純真培養された世間を知らない視野の狭い幼年学校出身者が陸軍中枢を支配していたことが大きな問題だったという見方があります。
3つの門柱が残っています。この門柱も歩兵第十一聯隊の門柱と同様に原爆によっても消失することはありませんでした。以下は近くに書かれていた説明文。
昭和20年8月6日の原爆によって校舎は焼失し終戦とともに廃校となった。
ここにその門柱だけが残った。爆心地からの距離は約1.1キロメートルである。
なお、この学校は明治30年9月、陸軍幹部の養成機関として開校されたが昭和3年3月軍縮により廃校となった。また、同11年に再開され、終戦まで教育が続けられた。開校以来、49期3345名を世に送り出している。
上で硫黄島関連の本を読んでいると書きましたが、その硫黄島で亡くなったロサンゼルスオリンピック馬術競技の金メダリスト西竹一(バロン西)中佐は広島陸軍幼年学校出身者だったりします。
こうやって戦争遺構をまわると、ホントに広島は軍都だったんだなとあらためて感じます。広島で戦争というと被爆したことばかり考える向きが少なからずありますが、国のために殉じた方々のことも考えること、知らない方は少なくても知ってもらうことからはじめないといけないのではないかと思うのでした。
このページの公開日:2010.08.20