旧帝国海軍:岩国陸軍燃料廠の防空壕跡、再び
5月25日に岩国陸軍燃料廠の防空壕跡を再訪しました。昨年3月にはじめて訪問したのですが、表示板が設置されたというニュースを読んで再訪することにしたのです。
表示板がついた岩国陸軍燃料廠の防空壕跡
あらためて場所を記すと、三井化学岩国大竹工場になります。正門を向いて右手の方向にその岩国陸軍燃料廠の防空壕跡はあります。
近づいてみると、たしかに表示板が設置されてました。表示板の内容です。
旧陸軍燃料廠
旧興亜石油 殉職者地
第二次大戦末期の昭和二十年五月十日、陸軍燃料廠及び興亜石油が、アメリカのB29による爆撃を受け、施設は一瞬のうちに破壊され廃墟と化しました。
この爆撃により陸軍燃料廠では約四千人の従業員のうち約三百人、また、興亜石油では約二千人の従業員のうち三十三人の尊い犠牲者がでました。まさに痛恨の極みであります
山口県玖珂郡和木町
この場所はもともと航空機用燃料の国産化を計画していた興亜石油(当時は東洋商工石油)が用地取得を決定していました。しかし同時期に燃料廠の用地を探していた陸軍がこの東洋商工石油の用地取得を知り同社に譲渡を要求。陸軍の要求に東洋商工石油は敷地の3分の2を譲渡し、和木村側に新たな埋立造成工事を行ったそうです。
そして1941(昭和16)年に興亜石油と社名を変更して工場建設に着手します。1943(昭和18)年に常圧蒸留装置(6,000バーレル/日)を完成し、興亜石油(現JX日鉱日石エネルギー)麻里布製油所が操業開始しました。 その後、1945(昭和20)年に航空機用燃料を製造するための主要装置「接触分解改質装置」(7,500バーレル/日)が完成したものの、5月10日のB29爆撃機の空襲により岩国燃料廠とともに壊滅的な被害を受けました。この空襲により興亜石油麻里布製油所では表示板にあるように33名(従業員24名、動員学徒9名)が殉職しました。
場所柄この表示板ができたといっても気付く向きは多くないと思われます。もっというと、岩国空襲を伝える戦争遺構などもコレといって見当たらず... 何が正しいというのはそれぞれの者が考えて判断するものと思いますが、そのきっかけとなる遺構が伝えられるよう願うばかりです。
参考にした書籍など
このページの公開日:2014.05.26