大和ミュージアムでは呉市による大和の潜水調査結果の成果を報告する企画展にあわせたのか、"大和特攻から帰還した船~駆逐艦「初霜」・「雪風」・「涼月」・「冬月」~"というミニ企画展が開催されています。駆逐艦がとりあげられることは多くないので、観に出かけてきました。
最初に「大和特攻」について。このミニ企画展では天一号作戦による戦艦「大和」と軽巡洋艦「矢矧」率いる第二水雷戦隊(浜風 / 朝霜 / 霞 / 涼月 / 冬月 / 雪風 / 磯風 / 初霜)の計10隻の艦による沖縄突入を「大和特攻」としています。4月7日の坊ノ岬沖海戦で大和をはじめとする6隻が沈没、帰還できたのは下の4隻のみでした。
この海戦により3721名が戦死。「冬月」「雪風」「初霜」の3艦は自艦はもちろん、沈没した艦から救出した兵士たちを多く乗せて佐世保に帰艦しました。「涼月」は船体の半分近くを損失、操艦機能も失っていましたが後進のみで佐世保まで帰艦しています。
上2つの写真で一番下にあるのは冬月の損傷見取図。色が薄くてわかりにくいのですが、赤っぽいマーカー(?)がついているところが損傷箇所なのでしょうか。
これら4艦のうち「初霜」は終戦直前の7月30日に京都宮津湾で空襲にあい退避行動中に触雷、その後沈没しましたが、「雪風」「涼月」「冬月」の3艦は沈没することなく終戦を迎えることができました。
こちらは雪風の艦内時計。雪風は終戦後、中華民国に引き渡され旗艦として活躍しました。1966(昭和41)年に中華民国の海軍を除籍されましたが、その主錨が江田島の旧海軍兵学校(幹部候補生学校・第一術科学校)にあります。
終戦後、防波堤になったのが「涼月」と「冬月」です。
「涼月」と「冬月」は1947(昭和22)年、桃型駆逐艦「柳」とともに福岡県の若松港沖に沈められて防波堤となりました。
1948(昭和23)年に米軍が撮った写真(の一部)です。3艦並んでいるのがわかります。手前がもっとも小さいので「柳」でしょう。調べてみると「柳」のとなりが「涼月」、そのとなりが「冬月」のようです。今は周囲をコンクリートで覆われるなどして柳の一部を除いてそれとわかるような原型をとどめていないそうです。
広島にはコンクリート船を堤防とした港(安浦港、坪井漁港)がありますが、普通の(?)軍艦も防波堤になったのですね。いつか観に出かけてみたいものです。
あまり取り上げられることのない駆逐艦、これからも取り上げられる企画展(ミニ企画展でも(^^;)があればいいなと思います(^-^)。
このページの公開日:2017.6.3