大竹招魂社

少し前のこと、妹背の滝を訪れた頃になるのですが、大竹市の大竹招魂社を訪れました。今さらですが、季節が関係する場所ではないので紹介します。

大竹招魂社 拝殿

とても大きく立派な招魂社

廿日市招魂社を訪れたときに今年は戦後75年というひとつの節目ということから"近くの招魂社・護国神社を紹介できたら"と記しました。その考えからの訪問でしたが、紹介が遅くなってしまいました。

さて、大竹招魂社… 大きさやその見てくれで判断してはいけないのですが、この大竹招魂社はとても立派です。

大竹招魂社 鳥居からみる

上写真では隠れてしまっていますが、鳥居前の左側に由緒が記された碑があります。見える砲弾は、一対となっていて鳥居の右側にもあります。こういった砲弾、招魂社ではその性格上からよく見かけますね。

大竹市招魂社御由緒
大竹市招魂社御由緒

大竹市招魂社は大竹市出身者にして明治以後官命または公務により軍に従い、戦禍を被り悠久の大義に殉じ護国の神となられた方々の御霊を奉祀している。
明治三十三年 権現山の麓の三叉路の傍に大竹村により、日清戦争北清事変の従軍者の凱旋記念碑が建立された。
明治三十九年三月 大竹小学校で挙行された日露戦争凱旋祝賀式の後、権現山上に大竹招魂社が建立されて、日清戦争北清事変日露戦争の戦没者を合祀し、在郷軍人会によって招魂祭が執行された。
大正三年三月 大竹町と油見村の協同により権現山上に誠忠碑が建立された。
昭和四年 大竹町と油見村が合併し、油見村の戦没者を合祀した。
昭和九年四月 既に諸用地造成のために山容を失いつつあった権現山上の大竹招魂社及び誠忠碑は、山麓の凱旋記念碑と共に白石一丁目の大滝神社境内に遷座した。
昭和二十年八月六日 米軍によって広島市に原爆が投下され、たまたま当日大竹町 小方町 玖波町より広島市に出動した義勇隊員や動員学徒の被爆戦没者数はおびただしく、後その写真は他の戦没者の写真と共に招魂社の拝殿に多く掲げられてる。
昭和二十一年四月 前年大東亜戦争終戦により九死に一生を得て復員帰郷した者が相集い、大竹招魂社奉賛会(会長 所義彦)を結成し、占領軍の武装した立哨兵監視の下、通訳を置いて、亡き戦友の慰霊招魂祭を執行した。
昭和二十六年 大竹町と木野村が合併し木野村出身戦没者を合祀した。
昭和二十九年 大竹町、小方町、玖波町、栗谷村、友和村松ヶ原が合併して大竹市となり、祭神の出身地を大竹市全域に拡大して合祀した。
昭和三十年四月 大竹市招魂社遷座二十周年記念事業として、大竹市招魂社奉賛会(会長 所義彦)大竹市遺族会(会長 上杉隆雄)大竹市剣道連盟(会長 陣場偆吾)の協同により、従来例祭に遺族を初め参拝者が多く拝殿狭小のため之を祝詞殿とし、道場造の拝殿を新築した。
昭和四十二年十月 大竹市招魂社奉賛会(会長 長門峯政)を大竹市戦没者崇敬会と改称した。
昭和四十三年十月 大竹市遺族会(会長 岡田勝)により慰霊碑が建立された。
昭和四十九年九月 大竹市招魂社遷座四十周年記念事業として、大竹市戦没者崇敬会(会長 長門峯政)大竹市遺族会(会長 岡田勝)が協同して、千四百五十七柱の神霊録を奉納した。
慰霊祭は大竹市戦没者崇敬会の主催により毎年四月に執行している。

昭和五十九年四月
大竹市戦没者崇敬会

招魂社にある碑

大竹招魂社には多くの碑があります。

慰霊
誠忠碑
凱旋紀念碑

それぞれ御由緒に記されています。"慰霊"は昭和43年に建立、"誠忠碑"は大正3年3月に権現山上に建立、"凱旋紀念碑"は明治33年に建立され、昭和9年4月に大竹招魂社および誠忠碑、凱旋紀念碑は大滝神社境内に遷座しました。

若い人たちのために

大竹招魂社の拝殿は2014年に修復工事をはじめ、2015年にその工事を終えています。

大竹招魂社 拝殿

それを報じている記事によると、そのときの市遺族会は40人。昭和40年代には約800人いたそうです。高齢化はとめようがありませんが、今はもっと減っているでしょう。

誤解を恐れずに記すと、学校で行われる教育だけでは偏ってしまう可能性は否定できません。様々なベクトルをもつ考えがあることを知る必要があります。こういった施設の存在が、若い人たちがいろいろな知識を持って考えて、自身たちの未来をつくっていくきっかけの一つになればいいなと思います。

参考にした書籍など