加藤友三郎

現在(2022年12月3日)の総理大臣は岸田文雄。4人目の広島県出身の総理大臣です。岸田文雄… 悪い人(≒行動の良くない人)ではないと感じるのですが、「決断と実行。」と言ってるにしては行動が伴っていないのではないかと(苦笑)。広島県出身としてはじめて総理大臣となった加藤友三郎は「決断と実行。」ができる政治家でした。

加藤友三郎銅像 入船山記念館
加藤友三郎銅像 入船山記念館

海軍軍人から政治家へ

私の中の加藤友三郎は「堀悌吉もいたワシントン海軍軍縮会議の主席全権」というものでした(汗)。もちろん、そのワシントン海軍軍縮会議での加藤友三郎のことは知っていますが、日露戦争では連合艦隊参謀長で三笠艦上で東郷平八郎や秋山真之が描かれている絵に一緒にいるとか、広島出身とか広島出身のはじめての首相といったことを知らず(汗^2)。私が僅かながら知っている日本史は二・二六事件絡み以降なので加藤友三郎は少し世代が上なんです… 常識知らずの勉強不足なだけですね(汗^3)。

比治山公園にある加藤友三郎銅像の台座
比治山公園にある加藤友三郎銅像の台座

そう、加藤友三郎は海軍大臣のときに主席全権として出席したワシントン海軍軍縮会議では保有艦の対米英比率10:7を主張する強硬派を抑えて、太平洋防備問題を条件に保有艦比率10:6を受け入れます。これはワシントン海軍軍縮条約が成立した最も大きな理由のひとつです。そして会議開催中の1921(大正10)年12月27日に堀悌吉中佐に筆記させた加藤伝言はあまりにも有名です。

国防は、軍人の専有物に非ず。戦争も亦、軍人のみにして為し得べきものに在らず。国家総動員して之に当たるに非ざれば目的を達し難し。

“加藤伝言"より

加藤友三郎はワシントン海軍軍縮条約成立後の1922(大正11)年6月に第21代内閣総理大臣に任命されます。総理大臣として行った実績にシベリアからの撤兵、山梨陸軍大臣による陸軍の軍縮があります(海軍の軍縮についてはワシントン海軍軍縮条約の協定通り実施)。

しかし総理大臣に就任して1年2か月後の1923(大正12)年8月24日に亡くなりました。決断して実行できる加藤友三郎がここで亡くなることがなければ、その後の歴史はかわっていたかもしれません。

加藤友三郎閣下生誕之地 碑

加藤友三郎は1861(文久元)年2月22日に今の大手町で生まれました。大手町第二公園に碑が建立されています。

加藤友三郎閣下生誕之地 碑
加藤友三郎閣下生誕之地 碑

碑隣の説明板の文章です。

「先内閣総理大臣 加藤友三郎閣下生誕之地 碑」について

広島出身で初の内閣総理大臣となった加藤友三郎は1861(文久元)年2月22日この地で生まれました
修道学園の前身である藩校などに学び海軍軍人となり その後海軍次官 海軍大臣などを務めました
海軍大臣在任中の1921(大正10)年11月 米国ワシントンで開催された世界主要海軍国による「海軍軍縮会議」には 日本の主席全権として出席し アメリカから提示された日本の海軍力を縮減する案を受け入れ 海軍内部の強固な反対を抑えて軍縮条約に調印し 日本は軍備拡大をはかる軍国主義国家ではなく 各国との協調による平和を求める平和主義国家であることを世界に示したのです

1922(大正11)年6月 第21代内閣総理大臣に任命され ワシントン会議の精神を忠実に守り 海軍軍人でありながら思い切った軍縮を断行 軍事予算の大幅な削減を実行して国家財政を正常化する一方で軍事費の削減分を教育や民生の充実に回したほか 国民生活に直結する諸政策をも進めるなどの業績を残しています 1923(大正12)年8月24日 現職のまま病没しました

2015(平成27)年2月22日
NPO法人 加藤友三郎顕彰会 理事長 土肥博雄

入船山記念館には銅像があります。

入船山記念館の銅像

入船山記念館には銅像があります。加藤友三郎は1909(明治42)年から1913(大正2)年まで呉鎮守府司令長官でした。

入船山記念館の加藤友三郎銅像
入船山記念館の加藤友三郎銅像

銅像横の説明板の文章です。

第8代呉鎮守府司令長官 加藤 友三郎

加藤 友三郎は広島藩士の三男として広島城下で誕生。明治6年(1873年)に海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)に入寮し、同17年(1884年)卒業。日清戦争の黄海海戦では最新鋭巡洋艦「吉野」砲術長として活躍し、日露戦争の日本海海戦では東郷平八郎連合艦隊司令長官の下で参謀長を努めた。その後明治42年(1909年)から大正2年(1913年)まで呉鎮守府司令長官、同4年(1915年)から同12年(1923年)まで海軍大臣を務め、この間米国海軍拡張に対抗して八八艦隊の予算取得、航空機部門を所掌する呉海軍工廠広支廠(後に広海軍工廠として独立)を創設する等、新時代にふさわしい海軍改革を推進した。また同10年(1921年)開催のワシントン会議に主席全権委員として出席し、列強各国に日本の立場を理解させると同時に、「国防は軍人の専有物にあらず」と海軍の軍縮と改革を断行して日本の孤立化を防ぎ、内外からその高い見識を絶賛された。同11年(1922年)には海軍大臣兼任のまま第21代内閣総理大臣に就任(広島県出身者として最初)、シベリア撤兵を決定したが、翌12年(1923年)総理在任中に病没した。死後、子爵と元帥の称号が贈られた

広島市の中央公園にも別の銅像があるのですが、サッカースタジアム建設中で見ることができませんでした。工事が終わったら観に行くことができればいいなと思います。

岸田総理、今からでも「決断と実行。」を

総理大臣に就任したときの所信表明で"聞く力"といったことを話していました。たしかに聞く力は持っているのかもしれません、でも誰の声・意見を聞いているのかな。たとえば就任直後に河井の買収事件では資金の流れをはっきりさせるといったことだったと思いますが、ナニカはっきりしたのだろうか。

聞くだけではダメで、決断して実行する必要があるのは認識されているようですが、自身はそれができていると考えているのかな? もし自身ができていると考えているのであれば、期待していた私が間違っていたのでしょう。そうではなく、自身もできていないと考えているのであれば、今からでも遅くないので決断して実行してほしい。まだ期待している… したいので。

参考にした文献など