大入魚雷遠距離発射場(広島県呉市)
先月のことになりますが、久しぶりに大入魚雷遠距離発射場(跡)を訪れました。振り返ってみると… 前回訪れたのは2010年のことのようです(汗)。せっかくなので、2010年のページよりも(少しだけ(汗))詳しく紹介したいと思います。
大入魚雷遠距離発射場の設置と今
明治時代の魚雷は射程400mから1500mでしたが、明治44年には射程10,000mに達しました。魚雷の研究がさらに進むと射程は30,000mになり、安全性も獲得しました。そんな魚雷の発射試験を実施する場所が発射場です。
明治時代は呉軍港内の予備発射場から対岸の麗女島へ射線を持っていましたが、艦の出入りが頻繁となり、危険が高くなってきたために呉軍港外の場所に移しました。遠距離射場としての亀ヶ首発射場の最大射程は10,000mのため、射程30,000mに達した魚雷には役不足です。そのため、1918(大正7)年、この大入に発射場を設置しました。
ちなみに"大正7年"というのは大呉市民史に六年度末竣成とあるのを根拠としているのですが、アジア歴史資料センターの資料を見ると、大正7年、9年に予想以上だった軟弱地盤への対応のために予算を増額しています。発射場として使いながら対応していたのでしょう。
戦後1948(昭和23)年に米軍が撮影した写真を拡大してトリミングしたものです。
引渡目録の施設図と建物の様子が違います。具体的には写真には施設図にある第三魚雷調整所がなく、海上の揚収装置上屋から魚雷収納庫準備場まで続く建物があります。終戦してから3年の間に変わったのかな。
魚雷試発射場並通路突堤の土台です。陸地からここまでの通路は当時のものではないようです。通路の土台、当時のものと思われるものが残っていますが、土台としての役目はほぼなく"残されている"という感じでしょうか。
台形の形をしたコンクリート構造物があります。揚収装置の土台でしょう。加えてここまでの写真を撮っている場所、防波堤も当時のものでしょうか。
そして大入魚雷遠距離発射場は回天との関わりもあります。
回天の航走試験
人間魚雷の構想は戦局が劣勢になったときから複数の者からでてきました。その人間魚雷の構想を実現した、実現へ歩をすすめたのがP基地でともに訓練をしていた黒木博司中尉(海機51期)と仁科関夫少尉(海兵71期)です。
1944(昭和19)年2月下旬に試作が開始され、同年7月はじめに回天(◯六金物)3基の試作が完成します。その航走試験がここ大入魚雷遠距離発射場で行われました。1号艇黒木博司大尉、2号艇仁科関夫中尉がそれぞれ5分間航走し、試験は成功しました。
このあと正式に兵器として採用された回天…
このページを記している7月19日は参議院議員選挙投票日の前日です。参議院議員選挙なので政権選択選挙ではないかもしれません。でも、若者が自身の意思で自身の選択ができる時代をつくる政治家、為政者を選ばなければいけません。
参考にした書籍など
- 中国日報社 編『大呉市民史』大正篇 上巻,中国日報社,1953. 国立国会図書館デジタルコレクション
- 弘中柳三 編『大呉市民史』昭和篇 上巻,呉日報社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション
- 「水陸設備費工事訓令 4 呉鎮守府の部2止(5)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021233600、大正7年 公文備考 巻107 土木17 (防衛省防衛研究所)
- 「新設(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021665700、大正9年 公文備考 巻89 土木15 (防衛省防衛研究所)
- 「呉工廠大入魚雷遠距離発射場防波堤新設外1廉工事施行の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04016823300、公文備考 K 土木・建築 巻5(防衛省防衛研究所)
- 「施設図(其の1)(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08010961600、呉海軍工廠 引渡目録 1/8 (防衛省防衛研究所)
- 近藤伊助 [著]『回天特攻 : 一搭乗員の軌跡』,[近藤伊助],[1992]. 国立国会図書館デジタルコレクション
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