大淀 旗艦を務めた軽巡洋艦

11月23日は大和ミュージアムへ。ミニ企画展"大淀 旗艦を務めた軽巡洋艦"を観てきました。会期終了が近づいていたので観ることができてよかった。

“大淀 旗艦を務めた軽巡洋艦" パンフレット

コンセプトどおりの任務はできず

大淀は1943(昭和18)年2月28日に就役しました。潜水艦隊旗艦の任務を想定して指揮通信能力と大航続距離、新型の高性能水偵"紫雲"を運用するための大型格納庫と長大カタパルトを持つ軽巡洋艦です。

しかし就役時には想定していた戦争とは異なっていました。航空機の発達により潜水艦による洋上襲撃の考えは無理なものとなっており、加えて"紫雲"の開発も遅れていて潜水艦隊旗艦になることなく機動部隊に編入されました。詳細については2016年に慰霊碑を訪れたときのページに記していますので、興味のある方はお立ち寄りください。

“大淀 旗艦を務めた軽巡洋艦" 展示物

機動部隊の艦として活動していた大淀は1944(昭和19)年5月に連合艦隊旗艦となりました。9月に連合艦隊司令部が陸に上がると再び機動部隊に編入。小沢囮艦隊、ミンドロ島への奇襲作戦、内地への物資輸送作戦などを行い、1945(昭和20)年3月に呉練習部隊に編入されました。

空襲による大破着底と解体

呉練習部隊に編入されて1か月も経たない3月28日に米機動部隊艦載機による空襲を受けます。その後5月に江田島湾内飛渡瀬に錨を下ろして防空砲台に。

空襲とその被害

しかし、7月24日から米機動部隊艦載機による空襲を受けます。着弾し、火災が発生している大淀を飛渡瀬の住民たちが消火活動や死傷者の搬送を手伝ったこと、仮の救護所をつくって傷ついた兵士の手当て、亡くなってしまった兵士の弔いを行ったこと、炊き出しを行って兵士たちを助けたことが記されていました。

慰霊碑そばにある軍艦大淀戦没者碑誌にも当時のことが記されています。2010年にはじめて軍艦大淀戦没者碑を訪れたページをあげた頃でしょうか、飛渡瀬に停泊していた大淀は地元住民から忌み嫌われていたといった旨のコメントを頂いたことがあります。

たしかにそのように考えていた住民もいるかもしれません。しかし、皆が皆そう考えていたわけではないことは間違いないのではないでしょうか。

横倒しになった大淀が解体されたのは終戦から2年後のこと。

“大淀"の解体

横転した大淀を引き揚げて旧呉海軍工廠のドックで解体されたのは知っていたのですが、それが旧海軍の造船官の方(北村源三氏)"もとの姿を保ったままドックに帰港させたい"という話からというのは初めて知りました。

ミニ企画展ということ、知る人は知ってる艦というということもあって、あまり足を止めて観ている方もいませんでした(苦笑。でも、多くの方に知ってもらいたい艦であり、地元の方々とのことも、もっと知ってもらって考えるきっかけとなるといいなと思います。。

おまけ:フランク・ケーブル

この日(11月23日)は、もともとは呉基地に寄港した米海軍の潜水艦母艦"フランク・ケーブル"を観に出かけたのです。しかし昨年寄港した"エモリーSランド"と同じように陸地からは見づらい場所(苦笑。

フランク・ケーブル… たち

呉湾艦船巡りに乗ろうかと思ったのですが、朝イチ10時にも関わらずかなりの乗船者(驚。海上(屋外)とはいえやめておきました。半面、大和ミュージアムは想像していたほど入場者でなかったように感じたので久しぶりに入場したのです。ミニ企画展は平日休まないと観れないかなと思っていたのでよかったです(^-^)。

参考にした書籍など

  • 丸 2011年10月号 特集 最後の連合艦隊旗艦 軍艦「大淀」