輜重兵第五連隊の施設遺構(広島市中区)

広島市の中央公園広場に建設中のサッカースタジアム用地で輜重兵第五連隊(終戦時は中国軍管区輜重兵補充隊)の施設遺構が見つかりました。ニュースなどで取り上げられ、先月7月には広島市により発掘調査の状況に関して現地説明会や報告会が開催されていました。多くの方の関心を集めていると思います。

輜重兵の施設遺構を自転車で観に行ってきた
輜重兵の施設遺構を自転車で観に行ってきた

輜重兵とは

“輜重"は"しちょう"と読みます。そもそも"輜重"という単語自体、あまり馴染みがないと思います。私は5年ほど前に広島城周辺の戦争遺構を回ったときに知りました。

そんな"輜重兵"は、兵站を担当する兵科です。戦闘を遂行するために必要な物資(食料、水、燃料、武器弾薬、各資材など)を管理し、戦闘部隊へ輸送することを主任務としていました。

輜重兵第五大隊の施設遺構
輜重兵第五大隊の施設遺構
輜重兵第五大隊の施設遺構
輜重兵第五大隊の施設遺構

物資を輸送するために使われた動力は馬たちでした。太平洋戦争になっても自動車を使った運用ができたのはアメリカなど一部の国だけでした。もっとも、日本でも自動車がまったくなかったわけではありません。輜重兵第五連隊(終戦時は中国軍管区輜重兵補充隊)でも自動車部隊を編成しています。

しかし物資不足から十分な数を揃えることが難しかったことは想像に難くありません。また、道なきところに自動車を走ることができる道を造ることも難しかったのでしょう、終戦時まで主役は馬たちでした。

詳しいことがわからない

下に紹介している広島市による説明会資料をみても、この施設については詳細がわからないようです。こういった施設図といえばアジア歴史資料センターで資料を探してみるのですが、やはりありません。

建物跡(厩舎と推定されている)
建物跡(厩舎と推定されている)
建物跡(厩舎と推定されている)
建物跡(厩舎と推定されている)

そんなよくわからない施設ですが、上2つは厩舎と推定されているようです。

手前のレンガ積みはなんだろう?
手前のレンガ積みはなんだろう?

厩舎と推定されている建物の(この写真での)手前にはレンガ積みのナニカが。

奥のものはなんだろう?
奥のものはなんだろう?

奥のモノはなんだろう? 広島市の資料にある厠跡とは違うように感じます。少し場所も違うような。

この輜重兵施設の遺構については、市としては一部を切り取って別の場所に移転設置する方針ですが、一部団体から再検討するよう要望書が出されました。サッカースタジアムをつくらないわけにもいかないでしょうから、今後どこに落とし所を見つけるのか気になるところです。

参考文献など

おまけ:馬碑(輜重兵第五連隊跡 馬碑)

サッカースタジアム予定地から城南通りを渡ったところ、太田川にかかる空鞘橋そばに輜重兵第五連隊の碑(輜重兵第五連隊跡 馬碑)があります。

輜重兵第五連隊跡 馬碑
輜重兵第五連隊跡 馬碑

碑の由来を記してこのページを終わりにします。

碑の由来

昭和三年、馬碑は輜重兵第五聯隊の兵営西南太田川沿いに建立された。

昭和二十年八月六日朝、米軍機の原爆投下により、輜重隊は壊滅、多くの兵士が犠牲になった。
その中で、馬碑は熱風を受けながらも唯一残った。

昭和五十七年、廣輜会(原隊の戦友会)により、隊跡馬碑と表示、復元された。

自動車が発達していない昔、物の運搬は主として馬匹によりなされていた。軍馬は日本各地より徴発(強制買い上げ)され、隊で調教、乗、輓、駄馬として、兵器、弾薬、糧秣の輸送に任じた。
戦場に於いて、四肢の蹄に鉄をつけて保護され、車を輓き、また鞍上に百キロ余りの荷を背負わされ、人に寄与した動物は馬だけであった。
蹄鉄は「馬の命」、行動中落鉄した時は、兵の沓下を重ねて蹄を保護し、次の休止時に予備鉄を装着した。
戦場では晴雨昼夜の別なく行軍の為、鞍傷した馬背を兵は寝ずに水で冷やし看病し続けた。兵にとって馬は正に戦友であった。
数次の作戦参加と米軍機の銃撃により、半数は戦死、終戦時は武装解除と共に、中国側に引き渡し、悲しくも馬は復員できなかった。

初年兵時代、「馬は三百円、お前等は一銭五厘でに幟をたててやって来る!」と、古年兵に叱られ乍ら鍛えられ、然も、馬が先輩であり、初年兵の肩章にある星の数で見分けるのか、当初は思うように動いて貰えなかった。
尚、馬は「活兵器」として大事に扱われた。

戦後六十年を経て、戦友は八十路を越え、健在者僅少となり、茲に輜重兵第五聯隊に唯一残された歴史的象徴たる、馬碑の由来を後世に伝えるべく、戦友の浄財と靖国神社の助成に依り、付帯施設を新設した。

昭和十八年
元中支派遣
第三十九師団輜重隊
第百三十二師団輜重隊
有冨部隊戦友会