広島陸軍幼年学校

COVID-19で外出もままならず… そんなわけで3月下旬に広島城のまわりを散歩したときに訪れた広島陸軍幼年学校(跡)を紹介します。

広島陸軍幼年学校跡 門と説明板
広島陸軍幼年学校跡 門柱と説明板

原爆で門柱だけが残る

上写真の説明板の文を記します。

広島陸軍幼年学校跡

昭和20年8月6日の原爆によって校舎は焼失し終戦とともに廃校となった。ここにその門柱だけが残った。
爆心地からの距離は、約1.1キロメートルである。
なお、この学校は明治30年9月、陸軍幹部の養成機関として開校されたが、昭和3年3月軍縮により廃校となった。また、同11年に再開され、終戦まで教育が続けられた。開校以来49期3,345名を世に送り出している。

原爆に耐えた門柱がこちら。場所はRCCの北側になります。

広島陸軍幼年学校 門柱
広島陸軍幼年学校 門柱

“参考文献など"に記した"輝く陸軍将校生徒"に当時の幼年学校の写真があります。その写真には門柱は4つあるのですが、ここに残っているのは3つ。また、その写真と見比べると、"廣島陸軍幼年学校"と書かれている門柱の位置が違うような。歴史の中でリニューアルなどあったのでしょうか。

廣島陸軍幼年学校
廣島陸軍幼年学校

幼年学校は歩兵第71聯隊の屯営地だった場所に作られました。現在の基町高校や白島小学校のあたりとなります。この門を入ると正面に見えたのが菊花の御紋章でした。

菊花御紋章

陸上自衛隊海田市駐屯地にある顕彰館に菊花の御紋章は残っています。

広島陸軍幼年学校 菊花御紋章
広島陸軍幼年学校 菊花御紋章

幼年学校は市街地への空襲が激しくなってきて昭和20年6月に疎開しました。この御紋章は疎開先の校長室に置かれていましたが、終戦にあわせて裏山に埋められました。その後、昭和47年に発掘され、吉田町の歴史民俗資料館に展示・保管されていましたが、平成10年に陸上自衛隊海田市駐屯地にある顕彰館に展示保管されることになり今に至ります。

顕彰館には幼年学校の軍服も展示されています。

広島陸軍幼年学校 軍服
広島陸軍幼年学校 軍服

この軍服は現存する唯一のものと考えられています。

広島陸軍幼年学校碑

門柱の左側(西側)に碑(?)があります。この碑の存在… 10年前に訪れたときには気が付きませんでした(汗)。

広島陸軍幼年学校 碑
広島陸軍幼年学校 碑

上写真に見えるのは碑文です。碑文を記します。

広島陸軍幼年学校 碑

廣島陸軍幼年学校は明治天皇の聖旨により明治三十年廣島市基町に開校し、昭和三年軍縮のため一旦廃校となったが、昭和十一年再興。爾来昭和二十年に至るまで累計三千三百四十五名の将校生徒を育成した これら同窓生は國軍の禎幹として皆克く邦家守護の重責に任じ、また戦後復興の柱石として活躍した
ここに在りし日の母校を偲び 原爆の劫火に耐えた校門を修復して永くこれを記念する

昭和四十六年六月吉辰
同窓生一同

この碑文の反対側には当時の配置図が記されています。

陸軍を率いる優秀な将校となってもらうため、陸軍が必要と考える教育を幼年の頃から行うために作られた陸軍幼年学校。明治30年に開校されたときは"広島陸軍地方幼年学校"とされていました。同様の陸軍地方幼年学校は東京、仙台、名古屋、大阪、(広島)、熊本に設けられました。

広島城のまわりにはこの陸軍幼年学校跡のほかにも歩兵第十一聯隊跡、護国神社内には原爆被害の第1報を伝えた中国軍管区司令部 防空作戦室、他にも多くの碑など旧陸軍に関係するものが多く存在します。

COVID-19のために人が多く集まるようなところに行くのは避けないといけませんが、このテのところには多くは集まらないでしょう。気分転換の散歩がてらに訪れてみて、そして何か考えるきっかけになればと思います。

参考文献など