日谷山の石塁(広島市佐伯区)

三連休の真ん中8月9日は佐伯区湯来町へ。善福寺というお寺の裏にある日谷山の石塁(にっこくざんのせきるい)を訪れました。

日谷山の石塁 下から(外側)
日谷山の石塁 下から(外側)

門信徒により築造された石塁

この"日谷山の石塁"は江戸時代に当時の善福寺住職からのお願いで門信徒が築造したと伝えられています。調べてみると善福寺は浄土真宗本願寺派。私のお寺さんも浄土真宗本願寺派なので、知らない仲ではないということです(何がだ?)

日谷山の石塁 下から
日谷山の石塁 下から(内側)

そういえば亡くなった祖父もお寺さんの木の剪定をしていました。私もお手伝いとして落ちた木枝や葉を集めてお小遣いを頂いていたのを思い出しました。もう30年以上前の話ですが(懐)。

話がそれてしまいました。上写真の右上に説明板があります。石塁の説明のところを記します。

日谷山の石塁 説明板
日谷山の石塁 説明板
「日谷山 石塁」

「日谷山 石塁(にっこくざん せきるい)」は所在地の住民の間では「日入谷(ひのいりだに)の万里の長城」の名で親しまれている防災用砦。 日入谷善福寺の紅葉の美しい裏山に面し、寺域の諸堂宇や耕地、屋敷跡を土石流や、北隣を流れる蛇ノ谷川の氾濫などから保護するため、江戸時代の後期に築かれたと推定される。石塁は山手側と寺域側(平成5年に屋敷跡や耕地などは自然公園化)の両面を石積みの石垣とし、長さ120mにわたって寺域を守るように延びている。
山手側(外側)80cm~140㎝、寺域側(内側)は100~200㎝の高さで上幅は80㎝~100cm。
両側は蛇ノ谷川と、南隣の小さな谷の石垣に繋がっている。一部に崩壊や損傷も見られるが、保存状態は比較的良好である。石積みは江戸時代中期の善福寺第13世住職大倫(住職在位1818~1844年)の発願で、当時の門信徒の労力奉仕で完成したと伝えられ、民衆の残した石塁として意義がある。
平成16年11月25日に旧湯来町史跡に指定された。

1844年に完成したとしても176年前のこと。旧湯来町史跡に指定された平成16年以降に補修が行われたとはいえ、太平洋戦争終戦から平成元年までは忘れられていた石塁がこうやって目の前にあるというのは凄い。

また、この"日谷山の石塁"は2013(平成25)年に土木学会選奨土木遺産に選奨されています。広島県で選奨されているのは9つのみ(2020年8月現在)。この"日谷山の石塁"がそのうちの1つというのも、歴史を知るとわかるような気がします。

万里の長城

説明板に"万里の長城として親しまれている"とありました。世界遺産の万里の長城は言い過ぎだとしても、高低やカーブのある石塁はそれのみが持つ雰囲気を十分感じさせてくれます。

日谷山の石塁 上からみる
日谷山の石塁 上から

石塁の上を歩いてよいのかどうかわからなかったので歩かなかったのですが、ググってみると歩いている方もいらっしゃいました。私も"万里の長城"を歩けばよかったな。

石塁は説明板のより上にも続いており、私はさらに上へ。ついてきていたツマは暑さのため説明板のところでそれ以上のぼることをあきらめました(苦笑)。

日谷山の石塁 頂上
日谷山の石塁 頂上

石塁の頂上部といえるところです。緩やかなカーブを描いて下へ続いています。石を積み上げてつくったものが緩やかなカーブを描いている… いつまでも飽きることなく見ていられます。

ツマには"何をしているんだろう?"と思われたに違いありません。あるいはいつものことなので慣れてしまっていて、"暑いから早く戻ってこい"と思われた程度かも(汗)。

“石で作られた橋"、"石の築造物"といった単語で調べて見つけた湯来町の"日谷山の石塁"、その歴史とともに、ナカナカ味のあるものでした。COVID-19のせいで遠くへ出かけることを避けている広島市民の方、ドライブの候補地としてみてはどうでしょうか?

おまけ:湯来は避暑地なんだなと

この日はとても暑い日… 湯来町はとても多くの家族ずれが水遊びを楽しんでいました。湯来交流センターの駐車場は溢れんばかりで、広場にも多くのテントが設営されていました。また、その上流・下流域でも車がとまっていて、善福寺そばでも水遊びをしている家族をみました。

以前に “湯来町は広島の避暑地" と聞いたことがあったのをあらためて思い出します。これから出かける方もいらっしゃるでしょう。せっかくの楽しい時間が悲しい時間にならないよう、水の事故に気を付けて楽しんでください。