海上自衛隊第1術科学校 教育参考館 特別展

先月8月のことですが、江田島市で開催されていた “海上自衛隊第1術科学校 教育参考館 特別展" を観に出かけました。海上自衛隊第1術科学校 教育参考館の所蔵資料を公開するイベントです。なお、写真撮影禁止のものが多かったので、展示物の写真はありません。ご了承ください。

海上自衛隊第1術科学校 教育参考館 特別展 パンフレット
海上自衛隊第1術科学校 教育参考館 特別展 パンフレット

2つの会場で開催

この “海上自衛隊第1術科学校 教育参考館 特別展" は、海軍兵学校移転130年記念地域交流事業として昨年はじめて開催されたようです(知りませんでした)。展示会場は2つあり、それぞれ場所とテーマは次のようになっていました。

第1会場
大柿地区歴史資料館・江田島市灘尾記念文庫
テーマ「特攻 ~命のメッセージ~」
第2会場
学びの館
テーマ「江田島と海軍兵学校」

私が観に行こうと決めた理由は、第1会場の “大柿地区歴史資料館・江田島市灘尾記念文庫" で回天菊水隊隊員の寄せ書きが展示されているということを知ったから。この寄せ書きは教育参考館でも展示されたことがなく、この特別展ではじめて展示されるものです。

回天の紙芝居を観る

この日は天応からフェリーに乗ったので、最初に行ったのは第2会場の “学びの館"。

第1会場:江田島市 学びの館
第1会場:江田島市 学びの館

入口が飾られているのは予想できましたが、びっくりしたのは紙芝居の自転車です。しかもタイトルは “回天 人間魚雷"。ちょうど私が訪れた日は紙芝居のイベントがありました(驚)。

瀬戸内紙芝居 河野輝之さん 回天を題材とした紙芝居
瀬戸内紙芝居 河野輝之さん 回天を題材とした紙芝居

呉市出身の河野輝之さんによる回天を題材とした紙芝居(他にも2題)を観させて頂きました。私、紙芝居ははじめてだったのですが、切り絵で作られた紙芝居、とてもよかったです。小さな子供たちに回天を説明するのは容易ではありませんが、少し年を重ねて学ぶときに幼い頃にこの紙芝居を観たことを思い出してくれるといいなと。

呉は回天の基地こそありませんでしたが、呉工廠では回天を生産していましたし、黒木博司大尉と仁科関夫中尉が回天を考案したのは甲標的の搭乗員として倉橋島で訓練をしていたときのこと。もっと多くの人が回天について知って興味を持ってくれるといいな。

特攻隊員の遺書

紙芝居を観たあとに向かったのは回天菊水隊隊員の寄せ書きがある第1会場 “大柿地区歴史資料館・江田島市灘尾記念文庫"。

第1会場:大柿地区歴史資料館・江田島市灘尾記念文庫
第1会場:大柿地区歴史資料館・江田島市灘尾記念文庫

あらためて記すと、第1会場のテーマは “特攻 ~命のメッセージ~"。回天菊水隊隊員だけでなく、航空機による特攻隊員の遺書も展示されていました。パンフレットにある肖像画のパイロットは久納好孚少佐(最終階級)。神風特攻隊の第一号としては関行男中佐(最終階級)が有名ですが、本当はこの久納好孚少佐という見解もあります。予備学生出身のためにそうはならなかったとも。

どちらが第一号だったかはわかりません。しかし、久納好孚少佐、関行男中佐ともそれぞれの想いを持って特攻したに違いありません。そんな若者がいたことを知って考えることが必要なんだと思います。

仁科関夫中尉の寄せ書き

回天菊水隊隊員の寄せ書きは2つ展示されていました。その寄せ書きで仁科関夫中尉はそれぞれ “神龍満四海" “断" と記していました。

第六艦隊司令長官から仁科関夫中尉に渡された短刀(大和ミュージアム)
第六艦隊司令長官から仁科関夫中尉に渡された短刀(大和ミュージアム)

神龍満四海

どういう意味なんだろう? 間違いを恐れずに記すと “天を回らし戦局を逆転させる" という意味を持つ回天を “奇跡を起こす" と言われている神龍に重ね、"すべての海(世界中)で回天が奇跡を起こす" ということか。

もうひとつは漢字一つ “断" です。"断じて行えば鬼神も之を避く" という意味を込めているのか、すべてを自身が出撃したあと日本がどうなるのかという心配を断つのか、あるいは生への未練を断つのか… 間違いなく死がやってくる21歳の青年はどういう気持ちだったのだろう。

菊水隊の戦果

菊水隊は伊36、伊37、伊47潜水艦にそれぞれ4基ずつの全12基で出撃しました。仁科関夫中尉も乗艦していた伊47は4基すべての回天を発進させることができましたが、伊36は回天の故障などにより発進できたのは1基のみ、伊47は爆雷攻撃により1基の回天を発進させることなく沈没。

戦果は油送艦 “ミシシネワ" を撃沈。他の戦果は不明…

最後に

菊水隊のあと金剛隊、千早隊、神武隊…と回天作戦が展開された9か月間で出撃した回天搭乗員は延べ148名、うち戦没者は80名になります。

私は特攻隊を美化したり称賛する気持ちはありません。もちろん、特攻隊員が命を粗末にしたなんてことは少しも思いません。特攻隊員一人ひとりが様々な考えを持って殉じたという事実があったことを伝えていかなければいけないと思います。

練習機も使った航空機による特攻、回天のように必死の兵器で若者が命を落とすようになっても戦争継続した日本。いやっ、日本というよりも、そうさせた日本の上層部。そんな上層部で生き残った者たちはどういう思いを持って戦後を過ごしたのだろう。特攻隊について考えるとき、そんな気持ちを抱かずにはいられない私です。

参考文献など