平生町の南蛮樋(山口県平生町)

3月1日は山口県平生町へ。江戸時代に造られた樋門(南蛮樋)を観に出かけました。今年は極寒のせいで、季節の花の開花が遅れています。そのため、観に行くにはまだ早い… 興味のある土木遺産や産業遺産を近辺で探して見つけたのが平生町の南蛮樋でした。

土手町南蛮樋
土手町南蛮樋

平生の人たちの生活を300年護った南蛮樋

そう、私、土木遺産や産業遺産、とても惹かれるのです。過去の方々が作った歴史、その歴史を作るために活躍し、存在した技術、その歴史を今に伝えるもの、なんだかとても惹かれます。そんな遺産を実際に見ると、資料(文章や写真)だけでは感じることができないナニカをいろいろと考える、感じることができるような気がして、とても楽しい(≒興味深い)。誤解を恐れずに記すと、戦争遺産(戦争遺構)もベクトルは同じかもしれません。実際に見てはじめて考えることができるという。

土手町南蛮樋

前置きが長くなってしまいました。訪れた2つの樋門は平生の人たちの生活を300年護りました。現在、平生町では2つの南蛮樋が山口県の有形民俗文化財として指定されています。最初に訪れたのはそのうちの1つ、土手町南蛮樋です。

土手町南蛮樋
土手町南蛮樋 2025年3月1日

樋門はともかく、"南蛮樋って?"と感じられるかもしれません。"南蛮樋"は"唐樋"の対になる言葉となります… って、回答にはなってないか(汗)。土手町南蛮樋の横に説明板がありました。その説明文を記します。

土手町南蛮樋

指定年月日 平成二年十一月六日

所在地/平生町大字平生町字土手町二百四十八番地一地先
土手町南蛮樋は、慶安四年(一六五一)から万治元年(一六五八)の間に大野毛利氏の初代、就頼により行われた平生開作のときに造られたと推定されています。
ロクロの心棒部分と板戸をナワで結び、鉄製ハンドルを手動で回転させることにより板戸を上下させて海水の防禦を図る仕組みになっています。干潮時には板戸を巻き上げて上流からの余水を放流し、満潮時には板戸を降ろして下流側からの海水の侵入を防ぎます。
南蛮樋は、ロクロ(南蛮と称する)を利用する点で唐樋とは構造が異なり、より精巧な装置です。南蛮樋の名称は、唐樋に対してオランダ技法による樋門の意味で用いられました。
一日二回の満潮時には必ず樋門を閉めなければならず、樋守の役割は、平生村の死活を制する大切なものでした。
大内川排水機場の完成により、この南蛮費は、その使命を終えましたが、三百余年の間、海抜0メートル地帯の住民の生産と生活を守る役目を果たしてきました。
その後、熊川の河川改修工事のため解体することとなりましたが、貴重な有形民俗文化財として保存するため、平成二十七年八月、ここに移築されました。

山口県教育委員会
平生町教育委員会

土手町南蛮樋 2025年3月1日
土手町南蛮樋 2025年3月1日

平生開作というのは、江戸時代にこの平生町で行われた耕地を作るための干拓事業です。平生町はこの干拓事業により140haの干拓地を得ました。干拓地なので、排水を適切に行う必要があります。排水をコントロールするために樋門が造られました。その樋門の技術が唐に由来するのが"唐樋"、南蛮(オランダ)に由来するのが"南蛮樋"です。"南蛮樋"は当時の最新の技術を使った樋門でした。

堀川南蛮樋

続いて堀川南蛮樋を訪れました。堀川南蛮樋もその役目を終えたあとに今の場所、堀川公園に移設されました。土手町南蛮樋から川沿いの道を上流に向かうと、この堀川南蛮樋がある堀川公園にたどり着きます。

堀川南蛮樋 2025年3月1日
堀川南蛮樋 2025年3月1日

説明板がありました。この堀川南蛮樋は土手町南蛮樋を参考に造られたそうです。

堀川南蛮樋門

この樋門は熊川にある土手町南蛮樋門を見習って堀川に造られたと推定されています。
ロクロの心棒部分と板戸を縄で結び、鉄製ハンドルを手動で回転させ、板戸を上げ下げすることにより、海水の侵入を防ぎ内水を排除する仕組みになっています。
堀川南蛮樋門は、土手町南蛮樋門と共に海抜ゼロメートル地帯の住民の生産と生活を守る重要な役割を果たしてきました。
しかし、その下流に堀川排水機場が新たに設置されたことにより、永年にわたるその役割を終えました。その後、公共下水道整備のため解体することになりましたが、貴重な有形民俗文化財として保存するため、平成五年ここに移築されました。

平生町教育委員会

土手町南蛮樋のある熊川から西側にある堀川には南蛮樋があったことを示す碑がありました。

堀川南蛮樋 2025年3月1日
堀川南蛮樋があったことを記す碑 2025年3月1日

歴史を感じることができました

堀川南蛮樋の隣には、平生開作の設計施工を行った横道忠右衛門の顕彰碑がありました。それによると、平生開作は慶安四(1651)年に開作の許可がおり、万治元(1658)年までかかりました。しかも、ほぼ工事が完成した時期に2回の大暴風雨で各所に被害を受け、復旧してようやく完成しました。この開作により、120ヘクタールの耕地と20ヘクタールの塩浜が得ることができました。しかし、横道忠右衛門は48歳で暗殺されたようです。暗殺とはなんとも物騒な話です。

今の平生町があるのは、この平生開作のおかげといっても言い過ぎではないと思います。それを支えた大きな技術のひとつが"南蛮樋"です。そんな"南蛮樋"を見ていると、いろいろなことが頭に思い浮かんでとても楽しい。これが"遺産"を訪れる楽しみですね(^-^)。