平生基地の橋口寛大尉

更新の日付が前後しますが、8月30日に山口県平生町の阿多田交流館を訪れました。

阿多田交流館 2025年8月30日
阿多田交流館 2025年8月30日

戦後80年で特別展

この阿多田交流館がある半島は1944(昭和19)年に大竹潜水学校・柳井分校が開校、翌年には特殊潜航艇(蛟竜、海竜)および回天の訓練基地となりました。阿多田交流館はその基地があった一角にあります。

2025年は戦後"80年"というひとつの区切りの年です。そんな年の8月、阿多田交流館で特別展「平生基地から出撃した若者たち~今、平和について考える~」が開催されていることを知り、久しぶりに阿多田交流館を訪れてみたのです。

阿多田交流館 2025年8月30日
阿多田交流館 2025年8月30日

特別展では平生基地から多聞隊として出撃する直前の写真や記名札が展示されていました(写真はご遠慮くださいという旨の提示があったので写真は撮っていません)。

平生の回天基地では9人の若者が亡くなりました。訓練中に3人、多聞隊で5人、そして終戦後に自決した1人。終戦後に自決したのが橋口寛大尉です。

終戦後に自決した橋口寛大尉

橋口寛大尉は兵学校卒(72期)の軍人です。1944(昭和19)年に回天の搭乗員を命じられました。大津島、光、平生と転属しますが、それは橋口寛大尉の技量が優れていたため。平生基地では特攻隊長として後進の指導を行っていました。橋口寛大尉自身は早い時期から出撃を希望していましたが、後進の指導のために出撃することを許されません。そのため、橋口寛大尉は血書で出撃を懇願しています(大津島の回天記念館にその血書が展示されています)。

平生回天碑 2025年8月30日
平生回天碑 2025年8月30日

そんな橋口寛大尉の願い届いたのは1945(昭和20)年8月に神洲隊特攻隊長としての出撃でした。しかし、出撃前に終戦となり、遂に出撃は叶いませんでした。

自身が指導した隊員たちが出撃し殉職、同期も殉職、加えて敗戦という事実。責任を感じた橋口寛大尉は8月18日未明に自身が搭乗する予定だった回天の操縦席で拳銃により自決しました。

16年前にも橋口寛大尉のことを記しましたが、こういった若者が自決することなく戦後の日本で活躍されていたら今の日本は変わっていたのかもしれないと感じます。誤解を招く記し方とわかって記しますが、自決すべき軍要職の者、士官はもっと別にいたでしょう。若者たちを死に追いやって生き残ったそんな者たちはどんな思いを、何かしら思いを持って戦後を過ごしたのだろうかと考えます。

橋口寛大尉は自啓録を記していました。自啓録に遺された遺書を転載します。この遺書からも橋口寛大尉がどういった若者だったのか想像できるのではないかと思います。

新事態は遂に御聖断に決裁せられしを知る即ち臣民の国体護持遂に足りず、突撃の精魂遂に足りず御聖慮の下、神州を終焉せしむるの止むを得ざるに到る。神州は吾人の努め足らざるの故にその国体は永遠に失われたり。
君臣国土一体の国体は失われたり。
今臣道臣節いかん、国体に徴すれば論議の余地なし、一億相率いて吾人の努め足らざりしが故に、吾人の代に於て神州の国体を擁護し得ず終焉せしむるに到りし罪を、聖上陛下の御前に、皇祖皇宗の御前に謝し、責を執らざるべからず。
今日臣道明々白々たり、然りと雖も顧れば唯残念の一語につく、護持の大道にさきがけし先輩、期友を思えば、ああ吾人のつとめ足らざりしの故に神州の国体は再び帰らず。

君が代の唯君が代のさきくませと祈り嘆きて生きにしものを
ああ又さきがけし期友に申し訳なし神州ついに護持し得ず

後れても後れても亦卿達に誓いしことば忘れめや

石川、川久保、吉本、久住、小灘 河合 柿崎、中島、福島、土井

“世紀の自決:日本帝国の終焉に散った人々" 海軍大尉 橋口寛(二十二歳) より引用

参考にした書籍など

  • 額田坦 編『世紀の自決 : 日本帝国の終焉に散った人びと』,芙蓉書房,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12254722
  • 人間魚雷回天 ザメディアジョン