江田島の慰霊碑(広島県江田島市)

4連休最終日の7月25日はとてもよい天気。この4連休はずっと天気がよくてよかった。これでコロナ禍でなければ、遠くまでドライブに行ったりしたんだろうな(+_+。

そんなことを感じたりもした25日に訪れたのは江田島。終戦まで1か月もない1945(昭和20)年7月24日、7月28日の米軍の空襲により沈没、あるいは大破、着底した利根、大淀、榛名、出雲の慰霊碑をまわりました。

海上からみた江田島
海上からみた江田島

軍艦利根戦没者慰霊碑

最初に訪れたのは軍艦利根戦没者慰霊碑。この25日は慰霊祭が関係者のみで行われることが軍艦利根資料館のtwitterに記されていたので、一般開放されてから訪れました。

軍艦利根戦没者慰霊碑
軍艦利根戦没者慰霊碑

碑の裏側に記されている碑文です。

慰霊碑々文

ハワイ海戦以来の戦歴を誇る一等巡洋艦利根はレイテの戦に傷ついた艦体を修理した後 昭和二十年二月海軍兵学校練習艦として江田島湾に姿を現わし 五月には此処から二百米沖合いに投錨して全艦を樹の枝で偽装しました しかし米艦載機が能登呂山の頂から急降下してきた七月二十四日から前後三回に亘る爆撃により 応戦奮闘の甲斐なく大破し 七月二十八日の夕闇が迫る頃軍艦旗を掲げたまま艫の方から沈んで行きました
利根が此の沖に停泊してから空襲を受ける迄の期間・・ それは僅か二ヶ月余の間でしたが 一千四百余名の乗組員は民家に宿泊し 或はクラブを置いて島民の世話を受け家族のような交わりをしました その心の繋がりのある人達が 海を血に染めて傷つき倒れ 一方島内に落ちた爆弾のため無辜の住民の中から悲惨な犠牲者が出る様を眼のあたりにして 島民は悲痛哀悼の念に堪えず何とかして慰霊の方法を講じたいと願う気持ちが実を結んで遂に二十周年を迎えた今日碑の完成を見たのであります 利根の戦没者百二十八柱と島民の犠牲者十七柱の御霊が永久に安らかに眠られますよう祈って止みません
昭和四十年七月二十五日 能美町長 相野田敏之

軍艦大淀戦没者之碑

続いて訪れたのは軍艦大淀戦没者之碑軍艦大淀戦没者之碑を訪れたのは5年ぶりでしょうか。

慰霊祭は中止になったという話を見たりしましたが、キレイな花やお供え物が。私も少しだけですが、献花させていただきました。

軍艦大淀戦没者之碑
軍艦大淀戦没者之碑

こちらも碑文を紹介します。

軍艦大淀戦没者碑誌

太平洋戦争の末期 日本国内は長期にわたる戦争のためあらゆる物資が極度に欠乏し南海に数々の功績を残した当時の最新鋭巡洋艦大淀も 重油不足により 乗組将兵と共に 江田島湾の奥深く 飛渡瀬内海沖にその英姿をかくしていた
昭和二十年七月二十四日未明のこと米国海軍機動部隊は 突如として 土佐沖に姿をあらわし 艦砲射撃を行うと同時に 艦載機による本土攻撃をはじめた 不幸にも大淀は それらの艦載機の発見する処となり 約一時間におよぶ 波状攻撃をうけた 大淀乗組の将兵は これに屈することなく機銃 高角砲 主砲までも砲門を開き 迎撃を敢行した 然し航空機の波状攻撃にはおよばず 戦死傷者は続出し 艦内各所に火災が発生し 猛威をふるうに至った
米海軍艦載機は その後も攻撃の手をゆるめることなく 五日間断続的に 攻撃を繰り返した
艦上に炸裂する爆弾 天空も裂けよとばかりに火を吹く主砲 そして高角砲 間断なくうち続けられる機銃 せまい内海を 尊い血潮で 紅に染めつつ 勇敢なる将兵は 激戦を続けた このような極限状況下にあって 当時の飛渡瀬警防団および国防婦人会は 戦闘の合間をぬって燃え続ける艦の消火活動や負傷兵の救出 手当等に 必死の活躍を続けた 然しその甲斐もなく 昭和二十年七月二十八日 遂に軍艦大淀は 十発以上もの至近弾直撃弾により 浸水はなはだしく 横転し 内海沖に没した この間 草間四郎大尉以下二百七十余名の若き生命は 祖国の栄光を信じつつこの内海に散華された
多くの遺体を茶毘にふす煙は 飛渡瀬の空を 三昼夜覆い 純朴な島民の涙をさそった 再び繰り返してはならない 戦争の惨状を後世に伝えると共に英霊の冥福と平和への願いをこめて 慰霊碑は建立された

軍艦榛名・出雲戦歿者留魂碑

そして最後に訪れたのが軍艦榛名・出雲戦歿者留魂碑。ここを訪れるのは10年ぶりでしょうか。

軍艦榛名・出雲戦歿者留魂碑
軍艦榛名・出雲戦歿者留魂碑

こちらも碑文を記します。

留魂碑の碑文

大東亜戦争の末期 江田島町小用港沖に碇泊中の軍艦榛名 出雲の両艦は 昭和二十年七月二十四日二十八日の両日にわたり 米艦載機の執拗なる大空襲を受け ここに壮烈なる海空の戦闘が展開され 日本海軍の精華を遺憾なく発揮した
しかくながらこの戦闘において榛名七十一柱 出雲三柱の尊き戦没者を出したことは 誠に痛恨に堪えない
昭和四十一年二月より 中浜吾祐江田島町長を中心に是等悠久の大義に殉せられた護国の英霊を弔い これが武勲を永く後世に顕彰せんが為に 留魂碑建立の運動が進められ 江田島町の有志竝に海上自衛隊 元両艦の乗員更には御遺族等有縁の方々よりの浄財により 昭和四十二年五月六日両艦奮戦の古戦場を眼下に眺め得るこの地に建立された 題字は元文相灘尾弘吉先生の筆による
民族の興隆は栄ある歴史の伝統により推進せられる その歴史は殉国の人々の尊き生命の集積がその根幹となっていることを忘れてはならない
留魂碑保存会

8月に入ると8月6日、9日と広島と長崎に原爆が使われた日、15日は終戦の日とやってきます。また、あまり取り上げられることはありませんが、原爆が使われた日以降も終戦の日まで空襲は続きました。

この7月の呉空襲も大きな世界の中では小さな出来事かもしれません。しかし、当事者にしてみれば決して小さなことではないことは言うまでもなく。

もう、そんなことが起こることがないよう願うばかりです。でも、そのためには願うばかりではなく、それぞれが考え、そして実行することが必要なことは間違いありません。まずは考えることからはじめよう。