船佐空襲(広島県安芸高田市)

訪れたの日付がページの更新順と前後しますが、5月19日に旧三江線の船佐駅(跡)を訪れました。

旧三江線 船佐駅 2024年5月19日
旧三江線 船佐駅 2024年5月19日

県北部への空爆

船佐駅を訪れた理由、それは「そうだ、旧三江線の駅巡りをしよう」と思ったわけではありません(^^;。ツマが実家に帰省している週末、前日に光海軍工廠後を訪れました。この日はツマを迎えに行かなければいけません。そのため、ツマの実家周辺(安芸高田市)に戦争遺構あったりするのかな… と、たどり着いたのがこの場所。

船佐空襲の説明板 2024年5月19日
船佐空襲の説明板 2024年5月19日

安芸高田市の戦争遺構というと、私が知っているのは太平洋戦争末期につくられた特攻基地海軍航空隊可部基地(国安牧場)ぐらい。B29による空爆が実施されていたことをはじめて知りました。

説明板の文章を記します。

米軍機(B29)による空爆被災の地

終戦の年、昭和二十(一九四五)年五月五日の早朝五時四〇分、米軍機「B29」一機が飛来し、旧船佐村字船木長谷(現三次市)の鳴瀬堰堤から同所所木対岸の旧発電所に至る一キロに及ぶ江の川両岸に三発ずつ、ほぼ二〜三〇〇メートルの間隔で爆弾を投下した。そのうちの一発が当所中森尚一宅の前庭に落ち、母屋、納屋を焼失、当日たまたま里帰りをしていた長女母子を含む家族七人が犠牲となった。
三江線船佐駅のプラットホームより線路を挟んだ真向かいのこの敷地に直径四メートル、深さ二メートルの穴が開き惨状を物語っていたが、現在その面影を留めるものは何もない。ただ、奇跡的に焼け跡から見つかった、爆撃時にできた傷跡の残る『御文章』と、柱に食い込んでいた爆弾の破片が、歴史を語る証人として遺族によって大切に守られている。
当時米軍機による県内の空襲は、広島の原爆投下までに四十五回を数えるが、爆撃は、広島・呉・福山に集中しており、中国山地ではこの地が唯一の被災地となった。

平成二十六年三月 安芸高田市教育委員会

鳴瀬堰堤と家族7人が亡くなった位置関係は下のような感じ。写真の右側の◯で囲んでいるのが鳴瀬堰堤、左側のほうが家族7人の住宅廻りです。より下流のほう(写真で左のほう)に説明板にある旧発電所があります。

鳴瀬堰堤との位置関係
鳴瀬堰堤との位置関係

旧発電所というのは広島呉電力の江の川発電所のことです。"旧"とあるように、当時すでに稼働を止めていました。江の川発電所は呉海軍工廠にも電力を供給していましたが、軍備拡大とともに電力需要は増加の一途。そのため、より下流に発電量の大きな熊見発電所を建設し稼働させていました(この熊見発電所は1992(平成4)年まで稼働していました)。

知られざる船佐空襲 安芸高田市によると、5月5日にこの場所を空爆した理由はわかりません。本当に"たまたま"が重なってしまって7人の家族が犠牲になった感。爆弾が数十メートルでも違ったところに落ちればなくなることはなかったかもしれません。でも、大切な人の死というのは、その一人だけが亡くなっても、大勢が亡くなったうちの一人だとしても変わらないんですよね。人数とか運は関係なく、亡くなったという厳しく悲しい事実のみ。

船佐空襲の説明板 2024年5月19日
船佐空襲の説明板 2024年5月19日

三江線は廃止され、船佐駅は上のような状況。普通の人(?)がこの説明板を見る機会は限りなくありません。私がそうであったように、広島県北部のこの場所に空襲があったこと、7人が亡くなったことを知っている人は多くないでしょう。そんな事実が忘れられることがないように。

参考にした資料など

おまけ:酷道

実はこの船佐駅、ギリギリまで訪れようか訪れまいか、悩んでいました。

旧三江線の橋梁 2024年5月19日
旧三江線の橋梁 2024年5月19日

というのは、江の川沿い(旧三江線沿い)の道って、酷道なんですよね(^^;。2009年に長谷駅に行ったのですが、泣きそうな道です。狭いことはもちろんなのですが、それに加えて離合する場所が少ない。船佐駅までであれば狭い道は少しだけということで訪れましたが、帰ろうとしたときに2台の車が通り過ぎました。あと数分早ければ離合の必要があったと思うと(^^;…

今、少ないながらバスが走っているようなのですが、離合とか大丈夫なのかな?